2008年 05月 31日
建元戸籍と里耶木牘の名籍 |
明け方,『東亜文史論叢』2007年,に掲載された長沙呉簡研究会のメンバーでもある鷲尾祐子女史の「出土文字資料にみえる秦漢代戸籍制度―湖北省里耶古城出土秦名籍と江蘇省天長県出土戸口簿・筭簿―」を読む.「戸籍」の2文字に引かれてのことなのだが,それにより,K2/23(〈録〉『里耶発掘報告』,205頁)のように,戸人(戸主)→戸人の弟→(戸人の妻.但し削除)→戸人の弟の妻→戸人の子→戸人の弟の子という順序で戸の構成員を配列している事例があることを知る.もう説明する必要がないと思うが,前秦の建元戸籍と同じ配列なのである.名籍あるいは戸籍を作成する場合,紀元前3世紀の秦から,紀元後4世紀の前秦に至るまで,同じ配列方法が採用されていたと考えることができるのである.この間には,600年以上の歳月が横たわっているのだが(そして中間の事例を示す用意が今はないのだが),この一致の意味するところは大きいのではないだろうか.
また建元戸籍には,各戸に等しく「舎一區」とあった.これについても,K28/29(〈録〉同上,204頁)の「毋室」という表記が参考になる.鷲尾氏は,太田幸男先生の解釈に拠りつつ,「住居を有さない」意と解する.これをふまえて「舎一區」の意味を解釈すれば,各戸が間違いなく本貫の里に住居を有していることを明記したものと考えることができるのではないだろうか.先にも断わったように,600年以上も隔てた簿籍の解釈であるから,推論以上の意味をもたないかもしれないが,あえて紹介しておきたい.
もう1点だが,長沙呉簡の名籍は,小さな竹簡であった.しかし里耶秦簡の場合は木牘であり,1枚の木牘に戸人以下,1戸ごとの構成員が列挙されていた.各戸について,構成員間の関係を一目瞭然で示す際には,確かに,1枚1人の竹簡よりも1枚1戸の木牘のほうが,散逸する危険性がなく,便利であったはずである.それでは,なぜ呉簡時点では1枚1人の竹簡(もちろん木簡であっても同じだが)が用いられていたのであろうか.これも検討事項になりえよう.
また建元戸籍には,各戸に等しく「舎一區」とあった.これについても,K28/29(〈録〉同上,204頁)の「毋室」という表記が参考になる.鷲尾氏は,太田幸男先生の解釈に拠りつつ,「住居を有さない」意と解する.これをふまえて「舎一區」の意味を解釈すれば,各戸が間違いなく本貫の里に住居を有していることを明記したものと考えることができるのではないだろうか.先にも断わったように,600年以上も隔てた簿籍の解釈であるから,推論以上の意味をもたないかもしれないが,あえて紹介しておきたい.
もう1点だが,長沙呉簡の名籍は,小さな竹簡であった.しかし里耶秦簡の場合は木牘であり,1枚の木牘に戸人以下,1戸ごとの構成員が列挙されていた.各戸について,構成員間の関係を一目瞭然で示す際には,確かに,1枚1人の竹簡よりも1枚1戸の木牘のほうが,散逸する危険性がなく,便利であったはずである.それでは,なぜ呉簡時点では1枚1人の竹簡(もちろん木簡であっても同じだが)が用いられていたのであろうか.これも検討事項になりえよう.
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by s_sekio
| 2008-05-31 21:50
| 余滴