2008年 05月 28日
南京出土の名刺簡? |
遅まきながら入手した,南京市博物館「南京大光路孫呉薛秋墓発掘簡報」(『文物』2008年第3期,2008年3月)によると,同墓から5点の名刺簡が出土したようである.うち3点は男性の棺内にあったようだが,等しく以下のような文字が書写されていたという(M1:57).
折鋒校尉沛國竹邑東郷安平里公乗薛秋年六十六字子春
伴出した「直百五銖」と「太平百錢」はそれぞれ蜀と呉で鋳造されたものなので,この墓の築造は早くても220年代ということになるが,報告者は呉の中晩期と推定している.被葬者が呉の時代に死去したことは疑いないところであろうから,そこに埋納された名刺も,死去直前のものであった可能性が高い.ましてや66歳という年齢まで書いてある.今まで見つかっていた名刺では,年齢まで記載した例はなかった.これだと毎年作成しなければならないではないか.これはひょっとすると名刺のヴァリエーションであって,被葬者を特定するためのアイテムではなかったか?名刺であればつきものの「問起居」という結句もない.木簡の下端には文字がないということだが,この部分は本来であれば「問起居」と書く箇所に相当する.官職や詳細な本貫記載があることも考えると,名刺簡を作成するような調子で,墓葬に埋納する,言ってみれば墓誌に相当するいわば墓表を作成し,埋納したのではないか?確かに同じものを3点も埋納する必要はないが.
もう1点気にかかったのは(最初,こちらのほうが気にかかっていたのだが),「公乗」という爵位が併記されていたことである.ご存知長沙呉簡の名籍簡にも頻出する爵位であり,三国時代になっても漢代の爵制が存続していたことがわかるが,登場する爵位は唯一「公乗」だけであった.ここでも同じように,薛秋は公乗である.しかし彼の場合,長沙呉簡に登場する一般の民戸や下級の吏ではなく,「折鋒校尉」という官職を有している点で大きく異なっている.この校尉がどの程度の地位なのか,判然としないが,官人であっても民戸と同じ程度の爵位しか有していないとすれば,まさに形骸化以外の何物でないだろう.そんなことを考えた.
折鋒校尉沛國竹邑東郷安平里公乗薛秋年六十六字子春
伴出した「直百五銖」と「太平百錢」はそれぞれ蜀と呉で鋳造されたものなので,この墓の築造は早くても220年代ということになるが,報告者は呉の中晩期と推定している.被葬者が呉の時代に死去したことは疑いないところであろうから,そこに埋納された名刺も,死去直前のものであった可能性が高い.ましてや66歳という年齢まで書いてある.今まで見つかっていた名刺では,年齢まで記載した例はなかった.これだと毎年作成しなければならないではないか.これはひょっとすると名刺のヴァリエーションであって,被葬者を特定するためのアイテムではなかったか?名刺であればつきものの「問起居」という結句もない.木簡の下端には文字がないということだが,この部分は本来であれば「問起居」と書く箇所に相当する.官職や詳細な本貫記載があることも考えると,名刺簡を作成するような調子で,墓葬に埋納する,言ってみれば墓誌に相当するいわば墓表を作成し,埋納したのではないか?確かに同じものを3点も埋納する必要はないが.
もう1点気にかかったのは(最初,こちらのほうが気にかかっていたのだが),「公乗」という爵位が併記されていたことである.ご存知長沙呉簡の名籍簡にも頻出する爵位であり,三国時代になっても漢代の爵制が存続していたことがわかるが,登場する爵位は唯一「公乗」だけであった.ここでも同じように,薛秋は公乗である.しかし彼の場合,長沙呉簡に登場する一般の民戸や下級の吏ではなく,「折鋒校尉」という官職を有している点で大きく異なっている.この校尉がどの程度の地位なのか,判然としないが,官人であっても民戸と同じ程度の爵位しか有していないとすれば,まさに形骸化以外の何物でないだろう.そんなことを考えた.
by s_sekio
| 2008-05-28 08:59
| 余滴