2007年 06月 29日
「年次未詳蓴鍾妻令狐阿婢随葬衣物疏」(04TAM408:17)の年代 |
表記の随葬衣物疏は墓葬などから,「五胡」時代のものとされているが,そのことは,書体からも疑いないところである.ただし,具体的な年代はもちろん,おおよその時代幅もよくわからない.その昔,「龍興某年宋泮妻翟氏随葬衣物疏」(75TKM96:15,16)の「龍興」の年次比定のため,随葬衣物疏のリスト部分に用いられている量詞に注目したことがあったが(『史朋』第21号,1987年12月.考えて見ればもう20年前だ!),その視点を継承してみよう.
衫,襦(以上,領),褌,裙(以上,立),袜,履(以上,量)などの量詞が,「五胡」時代を通じて少しずつではあるが,「枚」に統一され,やがて6世紀以降には「枚」を残しつつも,今度は「具」や「雙」に転化していく状況が見て取れる.表記の随葬衣物疏は,衫が「領」・「枚」の混用,襦が「領」,褌が「枚」,袜が「枚」となる.「枚」がわずかながら優越しており,「五胡」時代でも比較的後代だった可能性が高い.もう一点,本衣物疏には,四神も「急々如律令」なる常套句もない,ごく簡単な付加文言があるが,このような付加文言は,75TKM99:7(442年)や75TKM90:17(480年代)しかない.いずれも5世紀中頃以降である.それ以外のものは付加文言の全くないものか(59TAM305:8,59TAM305:17―いずれも4世紀末期,66TAM59:2―420年代,97TSYM1:5(b)―477年以後),四神か「急々如律令」を,あるいは双方を付加文言に含むものである.
なおこのアスターナ408号墓からは墓室壁画も出土している.これについては既に町田隆吉氏の分析に詳しいが(『西北出土文献研究』第5号,2007年3月),擬人化されながらも太陽や月が描かれている点を考慮すると,早期とは言えないが,かと言って,極端に遅い時期(例えば,460年以後の諸氏高昌国時代)に比定することは困難なようである.とりあえず5世紀中頃とすべきであろうか.
目下のところ,これ以上は限定が不可能だが,ようするに,四神や「急々如律令」という文言が「五胡」時代から諸氏高昌国時代を経て,一貫して随葬衣物疏の付加文言に盛り込まれたのではなく,一時期姿を消し,やがて仏教色豊かな6世紀中期以降の随葬衣物疏に「急々如律令」だけが継承されたという仮説をたてることが可能だということである.あくまでも仮説である.
衫,襦(以上,領),褌,裙(以上,立),袜,履(以上,量)などの量詞が,「五胡」時代を通じて少しずつではあるが,「枚」に統一され,やがて6世紀以降には「枚」を残しつつも,今度は「具」や「雙」に転化していく状況が見て取れる.表記の随葬衣物疏は,衫が「領」・「枚」の混用,襦が「領」,褌が「枚」,袜が「枚」となる.「枚」がわずかながら優越しており,「五胡」時代でも比較的後代だった可能性が高い.もう一点,本衣物疏には,四神も「急々如律令」なる常套句もない,ごく簡単な付加文言があるが,このような付加文言は,75TKM99:7(442年)や75TKM90:17(480年代)しかない.いずれも5世紀中頃以降である.それ以外のものは付加文言の全くないものか(59TAM305:8,59TAM305:17―いずれも4世紀末期,66TAM59:2―420年代,97TSYM1:5(b)―477年以後),四神か「急々如律令」を,あるいは双方を付加文言に含むものである.
なおこのアスターナ408号墓からは墓室壁画も出土している.これについては既に町田隆吉氏の分析に詳しいが(『西北出土文献研究』第5号,2007年3月),擬人化されながらも太陽や月が描かれている点を考慮すると,早期とは言えないが,かと言って,極端に遅い時期(例えば,460年以後の諸氏高昌国時代)に比定することは困難なようである.とりあえず5世紀中頃とすべきであろうか.
目下のところ,これ以上は限定が不可能だが,ようするに,四神や「急々如律令」という文言が「五胡」時代から諸氏高昌国時代を経て,一貫して随葬衣物疏の付加文言に盛り込まれたのではなく,一時期姿を消し,やがて仏教色豊かな6世紀中期以降の随葬衣物疏に「急々如律令」だけが継承されたという仮説をたてることが可能だということである.あくまでも仮説である.
by s_sekio
| 2007-06-29 14:24
| 余滴