2007年 05月 31日
堀 敏一先生のご逝去 |
5月29日夜,堀敏一先生が肺炎のため逝去された.享年82歳.謹んでお悔やみ申し上げます.
堀先生のお姿に初めて接したのは,何時のことだろう.良く覚えていない.確か,歴史学研究会の東洋前近代史部会(現,アジア前近代史部会)の例会の場だったのではないだろうか.そうだとすると,1976年か77年頃のことである.当時,明治大学の大学院生だった重近啓樹氏(現,静岡大学人文学部)が例会で報告された際に,指導教員でもあった先生が出席されたのだと思う.その後,たびたび部会の例会でお会いし,直接お話を伺う機会が少しずつ増えてきた.ご著書からは,「偉大な先生」というイメージがあるのだが,私たち若い研究者には,普段は気さくに接して下さった.私が新潟大学に赴任してからは,一度集中講義にお出でいただいた.1992年頃のことだったように記憶している.国上山の五合庵など良寛にまつわる場所をご案内したことを覚えている(今年の5月の連休に,先生をご案内してから十数年ぶりに五合庵を見学したところであった).今から思えば,私の「五胡」・北朝史研究は,先生の第一論文集『均田制の研究』の隙間を埋めるような形で進められたようなものである.その後,トゥルファン文書研究に転ずることになってからは(「五胡」・北朝史研究を放棄してしまったわけではないが),先生の東アジア世界論やその具体化としての高昌国理解については,異論を差し挟むことになったが(『北大史学』4,1997年),先生も拙著『西域文書からみた中国史』における律令の本質理解について,お手紙で厳しく批判された.4月に東洋文庫で開かれた内陸アジア出土古文献研究会に出席した折,隣室で開かれていた張家山漢簡の研究会に出席されていた先生と偶然お会いし,一言二言交わしたのが最後になってしまった.先生にもご心配をおかけしていた故栗原益男先生の論文集も,私自身の論文集もお見せすることができなかった.それが何よりも残念で,また不甲斐ないことである.
堀先生のお姿に初めて接したのは,何時のことだろう.良く覚えていない.確か,歴史学研究会の東洋前近代史部会(現,アジア前近代史部会)の例会の場だったのではないだろうか.そうだとすると,1976年か77年頃のことである.当時,明治大学の大学院生だった重近啓樹氏(現,静岡大学人文学部)が例会で報告された際に,指導教員でもあった先生が出席されたのだと思う.その後,たびたび部会の例会でお会いし,直接お話を伺う機会が少しずつ増えてきた.ご著書からは,「偉大な先生」というイメージがあるのだが,私たち若い研究者には,普段は気さくに接して下さった.私が新潟大学に赴任してからは,一度集中講義にお出でいただいた.1992年頃のことだったように記憶している.国上山の五合庵など良寛にまつわる場所をご案内したことを覚えている(今年の5月の連休に,先生をご案内してから十数年ぶりに五合庵を見学したところであった).今から思えば,私の「五胡」・北朝史研究は,先生の第一論文集『均田制の研究』の隙間を埋めるような形で進められたようなものである.その後,トゥルファン文書研究に転ずることになってからは(「五胡」・北朝史研究を放棄してしまったわけではないが),先生の東アジア世界論やその具体化としての高昌国理解については,異論を差し挟むことになったが(『北大史学』4,1997年),先生も拙著『西域文書からみた中国史』における律令の本質理解について,お手紙で厳しく批判された.4月に東洋文庫で開かれた内陸アジア出土古文献研究会に出席した折,隣室で開かれていた張家山漢簡の研究会に出席されていた先生と偶然お会いし,一言二言交わしたのが最後になってしまった.先生にもご心配をおかけしていた故栗原益男先生の論文集も,私自身の論文集もお見せすることができなかった.それが何よりも残念で,また不甲斐ないことである.
by s_sekio
| 2007-05-31 09:11
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