2006年 11月 24日
五胡の会第38回集会 |
園田俊介氏「北魏時代の楽浪郡と楽浪王氏」
報告者は,新出の「北魏太昌元(532)年王温墓誌」の記述を手がかりとして,北魏時代に設けられた楽浪郡(もちろん朝鮮半島のそれではなく,僑郡としてのそれ)は,通常説かれているように断絶したのではなく,ほぼ一貫して設けられていたこと,それが幽州にあったことなどを明らかにし,さらに北魏治下における楽浪王氏の姻戚関係について,石刻史料などによりながら復元する.楽浪僑郡の一貫した存在が明らかにされた意義は大きいが,当該墓誌はまだまだ分析の余地があるように思えた.また僑郡の存在理由や具体的な運営方法など,史料は乏しいにせよ,もっとわかることがあるのではないだろうか.楽浪郡と言えば,もっぱら王氏だが,ほかに名族はいなかったのか.そんなことはあるまい.他の名族はどこへ行ってしまったのか.王氏もさることながら,楽浪研究・僑郡研究として発展させることができると思う.考えてみれば,この時代の僑郡県研究は,もっぱら南朝のそれで,北朝の僑郡県研究など聞いたことがない(のは,私だけだろうか).かつて(それこそ四半世紀以上も昔)私も論じたことがあるが,「五胡」時代,この楽浪僑郡も含め遼東にも,そして河西にも多くの僑郡県が設けられたという経緯がある.しかしそれが北魏以降,どのように推移したのか,という視点自体がほとんどなかったという事実にあらためて気づかされた.
平田陽一郎氏・山下将司氏「武川鎮遺跡の比定と遺跡の現況」
今夏行われた新シルクロード科研での調査結果を中心とする報告.今まで武川鎮遺跡に比定されてきたのは,陰山山中にある土城梁古城と,そのさらに西北に位置する二份子古城の二ヶ所である.1986年に発見された後者が,位置や大きさなどから判断して武川鎮であった可能性が高いというのが,現時点での結論と受け止めた.では前者はいかなる遺跡なのか,あるいは『水経注』の記述はどう解釈すればよいのか,などいろいろ問題は残るというのが報告者の指摘であった.北魏時代を通じて武川鎮が全く移動せず,一貫して同じ場所にあったという前提自体,まだ証明されていないし,そもそも六鎮にいかなる機能が期待されていたのか,北辺の防衛システムの全体像も解明され尽くしているわけではないから(直江直子女史のお仕事によると,そこも「郷里社会」であったようだし,『魏書』本紀を見ると,「州」と共通する側面も確かにあったようだし),併行して幾つかの問題を解いていく必要があるように思う.
「覇史」の逸文蒐集と整理というこの会本来の目標も,大分到達点まで近づいたような気がする(あくまでも「気がする」と控え目に).なにしろ試作された逸文集成は,A4にびっしり197頁の大部なのだから.これも幹事の岩本篤志先生をはじめ会員の各氏の奮闘の賜物と言えよう.いつにも増して力をもらい,帰路についた.
報告者は,新出の「北魏太昌元(532)年王温墓誌」の記述を手がかりとして,北魏時代に設けられた楽浪郡(もちろん朝鮮半島のそれではなく,僑郡としてのそれ)は,通常説かれているように断絶したのではなく,ほぼ一貫して設けられていたこと,それが幽州にあったことなどを明らかにし,さらに北魏治下における楽浪王氏の姻戚関係について,石刻史料などによりながら復元する.楽浪僑郡の一貫した存在が明らかにされた意義は大きいが,当該墓誌はまだまだ分析の余地があるように思えた.また僑郡の存在理由や具体的な運営方法など,史料は乏しいにせよ,もっとわかることがあるのではないだろうか.楽浪郡と言えば,もっぱら王氏だが,ほかに名族はいなかったのか.そんなことはあるまい.他の名族はどこへ行ってしまったのか.王氏もさることながら,楽浪研究・僑郡研究として発展させることができると思う.考えてみれば,この時代の僑郡県研究は,もっぱら南朝のそれで,北朝の僑郡県研究など聞いたことがない(のは,私だけだろうか).かつて(それこそ四半世紀以上も昔)私も論じたことがあるが,「五胡」時代,この楽浪僑郡も含め遼東にも,そして河西にも多くの僑郡県が設けられたという経緯がある.しかしそれが北魏以降,どのように推移したのか,という視点自体がほとんどなかったという事実にあらためて気づかされた.
平田陽一郎氏・山下将司氏「武川鎮遺跡の比定と遺跡の現況」
今夏行われた新シルクロード科研での調査結果を中心とする報告.今まで武川鎮遺跡に比定されてきたのは,陰山山中にある土城梁古城と,そのさらに西北に位置する二份子古城の二ヶ所である.1986年に発見された後者が,位置や大きさなどから判断して武川鎮であった可能性が高いというのが,現時点での結論と受け止めた.では前者はいかなる遺跡なのか,あるいは『水経注』の記述はどう解釈すればよいのか,などいろいろ問題は残るというのが報告者の指摘であった.北魏時代を通じて武川鎮が全く移動せず,一貫して同じ場所にあったという前提自体,まだ証明されていないし,そもそも六鎮にいかなる機能が期待されていたのか,北辺の防衛システムの全体像も解明され尽くしているわけではないから(直江直子女史のお仕事によると,そこも「郷里社会」であったようだし,『魏書』本紀を見ると,「州」と共通する側面も確かにあったようだし),併行して幾つかの問題を解いていく必要があるように思う.
「覇史」の逸文蒐集と整理というこの会本来の目標も,大分到達点まで近づいたような気がする(あくまでも「気がする」と控え目に).なにしろ試作された逸文集成は,A4にびっしり197頁の大部なのだから.これも幹事の岩本篤志先生をはじめ会員の各氏の奮闘の賜物と言えよう.いつにも増して力をもらい,帰路についた.
by s_sekio
| 2006-11-24 13:04
| 参加記