2006年 11月 21日
「菩薩懺悔文承陽三年題記」 |
王振芬「承陽三年《菩薩懺悔文》及其相関問題」によって初めて紹介された旅順博物館所蔵の表題にある写経題記は,以前にも書いたが,「承陽」なる元号を記した3例目の文物である.西暦で427年に相当する.「菩薩懺悔文」は断片で下部が欠損しており,「菩薩懺悔(下缺)」承陽三年□(下缺)」□□□□(下缺)」(後缺?)」としか釈読できないので,月まではわからない.以前,この元号を取り上げた際,北涼政権は426年の年末で,夏政権の「承光」に由来するこの元号を廃棄したのではないか(すなわち,承陽は2年までで3年はないのではないか)と推測したが(『東洋史苑』第50・51号,1998年,259頁),早くもこの推測はまことに脆く崩壊してしまった.実際に夏の大敗を目の当たりにした北涼は,426年12月に北魏に遣使しているので,それを契機に「承陽」を廃棄したと考えるのには十分に根拠があったのだが.まあ都の姑臧を遠く離れたトゥルファンでは翌年までこの元号が使われたと考えることも不可能ではないが,それはこの「菩薩懺悔文」がトゥルファンで写されたという前提が必要である.なお王論文では,この経典の訳経時期も問題にされている.これが南朝宋の都建康で430年ないしは431年に訳出されたことは諸本が伝えるところだが,それ以前に訳出されていたことになる.『宋書』によると,まさに426年に北涼から宋への遣使が行われており,諸書475巻が北涼に伝えられているので,あるいはこの時の到来品を基礎に写経が行われたのであろうか.
現在,鋭意準備中の『西北出土文献研究』第4号に小文を起こさねばならないようで,これから取り組むとしよう.
現在,鋭意準備中の『西北出土文献研究』第4号に小文を起こさねばならないようで,これから取り組むとしよう.
by s_sekio
| 2006-11-21 10:38
| 余滴