2006年 09月 20日
第6回魏晋南北朝史研究会大会 |
2006年9月16日(土),於お茶の水女子大学・文教育学部1号館1階大会議室.
①田中靖彦「『世説新語』の三国描写と「元嘉の治」」
報告者は,文帝の皇弟とも言うべき劉義慶が,それゆえに受けた迫害を,『世説』で魏の文帝曹丕による弟曹植迫害と重ね合わせたとする.したがって『世説』は,曹丕ややはり皇弟を廃した司馬炎を批判的に扱っており,本書の編纂が劉義慶の主導により行われたことを説く.『世説』のなかで曹丕や司馬炎への言及は一部にすぎず,それこそが(あるいは,宋文帝による皇弟迫害への批判ないしは憤懣こそが)本書編纂の主要な理由であるとして良いものかどうか.劉義慶の主導という点も問題は残る.かりにそうだとしても,劉義慶をそのような人物として,また『世説』をそのような書として(ばかり)捉えて良いのだろうか.
②津田資久「符瑞「張掖郡玄石図」と司馬懿の台頭」
報告者は,曹魏政治史の,司馬氏派と曹氏派の対立,前者の後者対する勝利という構図に対して,司馬懿はむしろ帝室に依存しており,司馬氏派なる勢力の存在を否定する.その根拠こそ,主題にある「玄石図」である.このような言い方は礼を失するかもしれないが,一点突破全面解決というような展開.多くはない基礎史料に対する解釈をもう少し提示してもらわないと釈然としないものが残ってしまう.とくに緯書の検討などが不十分なように思われる.報告者の司馬懿像は,帝室に依存というか寄生しているような感じだが,既に高官でもあった彼をそのようにイメージして良いのだろうか.今までの構図がこれで一挙に瓦解したようには思えないというのが,正直なところである.
③川合 安「史学の興隆と南朝貴族社会―「譜牒の学」を中心に―」
報告者は,六朝史学史研究の盛況ぶりを紹介しながら,譜牒の編纂が南北両朝で異なっていたとする(一括して考える先行研究への批判).次いで越智重明氏の族門制説に疑問を呈し,あたらめて南朝の家譜には,国家に認定された「家格」は記されていなかったとする.族門制の理解に疑義を呈し,家格による任官に対して否定的な報告者の立場は,貴族制の理解に再検討を迫るものなのだろうが,南北両朝の家譜の違いを強調する必要は必ずしもないだろうし,家譜自体,当該時期に地域的にも階層的にも広範に普及していったことは疑いなく,その骨格は南北両朝で異なっていたわけではないだろう.社会的な潮流として,その点をもっとおさえておく必要があるのではないか.「史学の興隆」という主題(副題も含めて)も,意図するところがよくわからない.トゥルファン出土の族譜に関する王素氏の論稿を日本に紹介した者としては, 「史学」も「譜牒の学」も,マクラに使われただけといった感じで不満が残る.
翌日に長沙呉簡国際シンポジウムを控え,今年の魏晋南北朝史研究会の大会は,出土史料をテーマとした昨年の大会とうってかわり,編纂史料をテーマとして開かれた.『世説』を「編纂史料」という範疇で括れるのか,意見が分かれるところかもしれないが,編纂された書物であることには変わりない.長沙呉簡に象徴されるような出土史料の飛躍的な増加により,編纂史料の史料的な価値や意義が相対的に低下しつつあることは事実だが,かと言って編纂史料が軽視されて良いはずもなく,その意味では,バランスのとれた企画だったと評することができよう.ただ3報告とも政治史,しかも貴族制をめぐる政治史を扱ったもので,この点やや偏重気味だったのではないだろうか(貴族制が,なお魏晋南北朝史研究にとって課題であることを物語っているにせよ).政治史や制度史の研究にこそ,編纂史料は有効なのかもしれないが,編纂史料の可能性はそれにとどまらないはずである.個々の報告に関する感想は上に記したが,私自身が出土史料に専念しているせいか,史料批判(あるいは史料への密着度といったようなもの)がいずれも不十分だったように思えてならない.したがって,逆に編纂史料の限界性を思い知らされた参加者もいたのではないだろうか.菊池英夫先生が執筆された,1970年の史学雑誌,回顧と展望の魏晋南北朝の項をあらためて思い出している所以である.もっとも,政治過程の叙述はむつかしい,むつかしすぎる.が,新しい「政治史のスタイル」が模索されても良いのではないか,とも思う.
①田中靖彦「『世説新語』の三国描写と「元嘉の治」」
報告者は,文帝の皇弟とも言うべき劉義慶が,それゆえに受けた迫害を,『世説』で魏の文帝曹丕による弟曹植迫害と重ね合わせたとする.したがって『世説』は,曹丕ややはり皇弟を廃した司馬炎を批判的に扱っており,本書の編纂が劉義慶の主導により行われたことを説く.『世説』のなかで曹丕や司馬炎への言及は一部にすぎず,それこそが(あるいは,宋文帝による皇弟迫害への批判ないしは憤懣こそが)本書編纂の主要な理由であるとして良いものかどうか.劉義慶の主導という点も問題は残る.かりにそうだとしても,劉義慶をそのような人物として,また『世説』をそのような書として(ばかり)捉えて良いのだろうか.
②津田資久「符瑞「張掖郡玄石図」と司馬懿の台頭」
報告者は,曹魏政治史の,司馬氏派と曹氏派の対立,前者の後者対する勝利という構図に対して,司馬懿はむしろ帝室に依存しており,司馬氏派なる勢力の存在を否定する.その根拠こそ,主題にある「玄石図」である.このような言い方は礼を失するかもしれないが,一点突破全面解決というような展開.多くはない基礎史料に対する解釈をもう少し提示してもらわないと釈然としないものが残ってしまう.とくに緯書の検討などが不十分なように思われる.報告者の司馬懿像は,帝室に依存というか寄生しているような感じだが,既に高官でもあった彼をそのようにイメージして良いのだろうか.今までの構図がこれで一挙に瓦解したようには思えないというのが,正直なところである.
③川合 安「史学の興隆と南朝貴族社会―「譜牒の学」を中心に―」
報告者は,六朝史学史研究の盛況ぶりを紹介しながら,譜牒の編纂が南北両朝で異なっていたとする(一括して考える先行研究への批判).次いで越智重明氏の族門制説に疑問を呈し,あたらめて南朝の家譜には,国家に認定された「家格」は記されていなかったとする.族門制の理解に疑義を呈し,家格による任官に対して否定的な報告者の立場は,貴族制の理解に再検討を迫るものなのだろうが,南北両朝の家譜の違いを強調する必要は必ずしもないだろうし,家譜自体,当該時期に地域的にも階層的にも広範に普及していったことは疑いなく,その骨格は南北両朝で異なっていたわけではないだろう.社会的な潮流として,その点をもっとおさえておく必要があるのではないか.「史学の興隆」という主題(副題も含めて)も,意図するところがよくわからない.トゥルファン出土の族譜に関する王素氏の論稿を日本に紹介した者としては, 「史学」も「譜牒の学」も,マクラに使われただけといった感じで不満が残る.
翌日に長沙呉簡国際シンポジウムを控え,今年の魏晋南北朝史研究会の大会は,出土史料をテーマとした昨年の大会とうってかわり,編纂史料をテーマとして開かれた.『世説』を「編纂史料」という範疇で括れるのか,意見が分かれるところかもしれないが,編纂された書物であることには変わりない.長沙呉簡に象徴されるような出土史料の飛躍的な増加により,編纂史料の史料的な価値や意義が相対的に低下しつつあることは事実だが,かと言って編纂史料が軽視されて良いはずもなく,その意味では,バランスのとれた企画だったと評することができよう.ただ3報告とも政治史,しかも貴族制をめぐる政治史を扱ったもので,この点やや偏重気味だったのではないだろうか(貴族制が,なお魏晋南北朝史研究にとって課題であることを物語っているにせよ).政治史や制度史の研究にこそ,編纂史料は有効なのかもしれないが,編纂史料の可能性はそれにとどまらないはずである.個々の報告に関する感想は上に記したが,私自身が出土史料に専念しているせいか,史料批判(あるいは史料への密着度といったようなもの)がいずれも不十分だったように思えてならない.したがって,逆に編纂史料の限界性を思い知らされた参加者もいたのではないだろうか.菊池英夫先生が執筆された,1970年の史学雑誌,回顧と展望の魏晋南北朝の項をあらためて思い出している所以である.もっとも,政治過程の叙述はむつかしい,むつかしすぎる.が,新しい「政治史のスタイル」が模索されても良いのではないか,とも思う.
by s_sekio
| 2006-09-20 16:04
| 参加記

