2006年 06月 20日
長沙呉簡の「丘」と「邑下」 |
長沙呉簡に頻出する「丘」について,かつて民戸の現住地と考えたが,まだ定説にはなっていない.あくまでも耕地の所在地と考えるむきも少なくないようである.私見では,5世紀の敦煌戸籍に見える「塢」のように,現在居住している城外の地で,その近辺に耕地も広がっていたということになる.そして敦煌戸籍がそうであるように,ここでもまた郷・里に附籍されたことも疑いない.吏民簿の記述がそれを示している(なお吏民簿は当時の戸籍として考えられてきたが,集計簡やその内訳簡の豊かな内容から判断すると,戸籍よりも計帳に類するものと考えるべきかもしれない).
ところで,竹簡のなかに「邑下」というタームがわずかだが確認される.5328,7533,および9990などである.とくに後2点は,賦税納入簡で,「入都郷邑下男子陳仗所調二年布三丈九尺(以下,略)」(7533),「入南郷邑下男子□(以下,欠)」(9990)となっている.本来であれば,郷名に続いて丘名が記され,その下に丁中(ここではともに「男子」)や姓名が記されるべきところ,丘名にかわってこの「邑下」の2字が入っている.おそらくこれは,城外の丘に居住せずに,城内に居住していたことを示しているのではないか.「城下」といったようなニュアンスがあるこのタームは長沙呉簡だけに見られるものではなく,広く用いられたタームであって,上のような理解を妨げないであろう.問題は,「邑下」と記された民戸があまりにも少ないことである.まさかゴーストタウンでもあるまいに.今後,検討課題の一つになろう.
ところで,竹簡のなかに「邑下」というタームがわずかだが確認される.5328,7533,および9990などである.とくに後2点は,賦税納入簡で,「入都郷邑下男子陳仗所調二年布三丈九尺(以下,略)」(7533),「入南郷邑下男子□(以下,欠)」(9990)となっている.本来であれば,郷名に続いて丘名が記され,その下に丁中(ここではともに「男子」)や姓名が記されるべきところ,丘名にかわってこの「邑下」の2字が入っている.おそらくこれは,城外の丘に居住せずに,城内に居住していたことを示しているのではないか.「城下」といったようなニュアンスがあるこのタームは長沙呉簡だけに見られるものではなく,広く用いられたタームであって,上のような理解を妨げないであろう.問題は,「邑下」と記された民戸があまりにも少ないことである.まさかゴーストタウンでもあるまいに.今後,検討課題の一つになろう.
by s_sekio
| 2006-06-20 12:48
| 余滴