2025年 11月 28日
補論 |
タイトルはどうでも良いのだが,あらためて91DFM1と,2015年墓の2基の年代比定をやり直す必要がありそうだ.両墓の塼の多さ,瑞獣の種類の共通性,同一瑞獣を左向き・右向きの2点ずつ描いていることなどから同時代と考えてよいだろう.では,それは何時か.ここからは松浦史子氏のお仕事に学ぶ必要がある.おそらくは〈五胡〉時代,すなわち河西が前涼の勢力圏に組み込まれてからのことと思われるが,ではなぜ,この時期,敦煌だけに瑞獣をモチーフとした画像塼墓が築造されたのか.ここからは佐藤智水氏らのお仕事に学ぶ必要があろう.敦煌の在地名族と政権との関係性である.酒泉や嘉峪関では画像塼墓の築造は下火になっていたことは確かである.高台では建康郡が330年代半ばに新設され,おそらくはそれにともなって人口が急増し,各地から集まった人びとが画像塼墓を築造し始めたものと思われるが,モチーフ自体は隣接する酒泉や嘉峪関の影響下にあったのだろうか.それに彼らが持ち寄ったモチーフが取り込まれたということだろうか.このあたりは謎のままだが,補論が必要であることを痛感している.
by s_sekio
| 2025-11-28 20:05
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