2025年 01月 31日
結局 |
今までのまとめ(のようなもの).
436年文書のある「胡賊」を盧水胡北涼と解釈し,トゥルファンから北涼権力が撤退したとする理解が広く行なわれてきた.つまり高昌太守闞爽VS盧水胡北涼という構図である.その代表が白須論文である.このことはさんざん書いたが,しかしその文書には,縁禾という北涼の元号が使われていた.北涼では既に太縁と改元されていたが,縁禾はトゥルファンでも馴染み深い元号だった(はず).これは明らかに矛盾で,わたしは「胡賊」を盧水胡北涼と解することはできなかった.そのために拙稿はなんとも歯切れの悪い出来で,40年近く経った今でも忸怩たる思いが消えなかった.
今回もななんとかその思いを晴らそうとして,当時の国際環境を史書の断片的で相互に食い違う記述から読み取ろうと思って苦労してきたが,闞爽が敵対的・反抗的な自立をしたわけではないと考えれば,こんな苦労は不要となる.昨日アップしたような視点である.「胡賊」の胡は車師でも良いし,そもそも史書と符合させる必要もない.王素氏がソグドと解釈していることもわかった.
白文書の押署からも,北涼時代と闞爽時代の吏員の顔ぶれは重なっていた.だからドラスティックな変化はなかったことがわかる.柔然の圧力によって交通路が杜絶しがちであり,北涼中央とトゥルファンとの交通が円滑を欠いていた可能性も考慮すべきだろう.縁禾を使用し続けたのも,それがトゥルファンでは人口に膾炙しており,不要な誤解を招かないためにも,太縁の使用には慎重だったのではないか.交通の途絶により,元年から使えず,二年からの使用とでもなれば,なおさらである.「「縁禾」と「太縁」」の構成も見直しが必要のようである.やはり研究史をしっかりとおさえておくべきだろう.批判も矛先もはっきりするし,別稿を起こす必要もなくなるかもしれない.
by s_sekio
| 2025-01-31 16:34

