2025年 01月 27日
「胡賊」 |
「縁禾五(436)年二月四日民杜犢辭」(79TAM382:6-2)に,「去前十月内胡賊去後」とある「胡賊」を北涼権力と解釈したのは,白須淨眞「高昌・闞爽政権と縁禾・建平紀年文書」だった.「辭」とは何ぞや,から始まり,「縁禾六(437)年二月廿日闞連興辭」(79TAM382:5-2)の「虜使」の解釈(「虜」は柔然を意味したという),さらにはそれとの対比などから,「胡」は北涼盧水胡沮渠氏とする.そして,「……関尾氏の批判をかわすには,盧水胡が当代にあって胡と他称された証左をなお提示する必要があろう」とし,「胡賊の去った」ことは北涼・盧水胡が高昌から後退したことを意味し,そう考えてこそ同地における重要な事件としてふさわしいものとなろう」として,435年10月に北涼勢力がトゥルファンから撤退したとする.さらに「高昌の官民が,胡に賊を加える表現をとったのは,漢人闞爽が在地漢人勢力の支配権を掌握した際,かつて彼等の上にかぶさっていた北涼勢力を,外部より侵入した賊と認識したからであろうか」と推測する.
これで,私の批判をかわしたということなのかもしれないが,ちっともかわしたことになっていない.私は「胡賊」の解釈を保留したが,縁禾というのは,ほかならぬ北涼が北魏の延和を同音異字で表記した元号で,北涼独自のものである.その北涼の元号を使いながら,北涼を「胡賊」と呼んだというのは,どう考えても納得できないのである.少なくとも私の元号理解では.この私の疑問は完全にスルーされてしまっている.
そしてもう一つ,「盧水胡が高昌から後退した」とは具体的にどのような行動なのだろうか.そして「彼等(在地漢人勢力)の上にかぶさっていた北涼勢力」とはどのようなイメージなのだろうか.在地漢人勢力と,その上に君臨していた征服盧水胡勢力という図式的な構図のようだが,リアリティーに欠ける.闞爽の奪権まで,北涼の高昌太守だったのは,本籍任(王素氏による)の隗仁だった.郡府の吏員も押署から判断する限り,漢族.これは名前やその書きっぷりからわかる(コータン出土の唐代文書の押署は,漢族とは思えないヘタな漢字だった).盧水胡出身者から構成される軍事力が駐留していたのだろうか.もちろんそんな史料はない.高昌の漢族社会に対するイメージが欠如しているのだろう.敦煌の張恭が曹巍初,西域戊己校尉としてトゥルファンに赴いて以来,「在地漢族社会」は次第に発展していったと考えられ,前秦の高昌太守も本籍任の楊幹であった.隗仁と闞爽の交替劇は,在地社会の安全確保をめぐる路線対立だったと考えるべきだろう.
by s_sekio
| 2025-01-27 20:04
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