2025年 01月 26日
年代比定・釈読 |
『文書』壱,71頁の「兵曹行罰幢校文書」(75TKM91:20(a))の8行目,
□□□年四月十四日
とある.「□□□」の部分は切り取られているように写真では見える.また「日」の下も欠損しており,この下にも文字があった可能性が高い(「白」字).ようするに年次未詳なのだが,王素さんの『吐魯番出土高昌文献編年』は,□の部分を「縁禾六」の3字とする(No.175).解題には,「拠残筆,応為縁禾六年」とあるが,「残筆」があるようには見えないのだが.
もう一点,『文書』壱,67頁の「建□某年兵曹下高昌・横截・田地三縣符爲發騎守海事」(75TKM91:26)の12行目,
建□□年九月十二日白
こちらも「□□」の部分が切り取られており,「年」だけは縦画と一番下の横画が辛うじて確認できる程度.1字目が「建」の元号は,この時代この地域では「建平」しかないので,上の「□」は平と推補してよいだろう.『吐魯番出土高昌文献編年』も,建平(441~442)某年九月十二日とする(No.210).441年は建平5年,442年は6年.トゥルファンからはこの2年間の紀年文書しか出土していないからであろう.つまり建平元年から4年までの事例はないから.しかし白須淨眞「高昌・闞爽政権と縁禾・建平紀年文書」は,呉震氏の所説に従って,下の「□」を五と推補する.
こちらも残筆がないことは確実なので,どうしてだろう?という疑問がわく.
この両文書はいずれも兵曹の「白」文書で(なので,『吐魯番出土文書』壱の定名は問題がある),拙稿の論証に用いたいのだが,年次比定の是非から話を始める必要があり,実に煩雑な論証が必要になりそうで,今から気が重い.それに時間がかかり,文章も無駄に字数が増えそうで,めげる.
by s_sekio
| 2025-01-26 20:41
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