2025年 01月 19日
令・敎 |
前にも書いた記憶があるが,麴氏高昌国時代,高昌国王の命令である「令」は「符」によって郡や県の「司馬主者」に伝達された.高昌郡時代も「符」が県の「主者」に宛てて発出された.郡太守の命令は「(府君)敎」だが,この「敎」が「符」によって県の「主者」に伝達されたことを示す文書はない.では「敎」自体がなかったのか,と言うと,そんなことはなく,「辞」・「啓」・「白」などによって,太守の「敎」を発出してほしいという要望が出されている.したがって「敎」が発出されたことは疑いないのだが.「符」の実例が少ないので,「敎」が「符」によって管下の県(の「主者」)に伝達されたことが証明できないだけなのではないか.
もう一点,麴氏高昌国時代の公文書の種類が少ないのは,埼玉県の広さに匹敵するような小さな国土で,情報伝達もシンプルだったのではないか.高昌郡時代は国都が近くても敦煌・酒泉・武威で,前秦時代は長安だったのだから,複雑にならざるを得ず,441年からの高昌北涼政権でも,これを踏襲したからであろう.
by s_sekio
| 2025-01-19 19:52
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