2006年 04月 16日
「辟」と「塁」 |
高村武幸「前漢河西地域の社会」によると,居延簡には住民の居住地として,「××辟」なる表記が見られるという.また県城の外部にも里が立地していたともいう.辟を複数束ねて城外の里が構成されたというのが高村氏の見解である.辟とは「壁」(塢壁)なのだろうが,一方,懸泉簡には,県の管轄下にある「塁」に羌族が附せられていたようである.この塁も形状としては壁に近いのだろうが,帰義塁という名称からして,羌族が一括して管理されていたのであろう.時代が下るが,5世紀の西涼戸籍に見えている「塢」の性格についても,高村論文は示唆を与えてくれよう.また魏晋時代の画像磚墓を含む古墓群が,当時の県城以外の地にも広汎に分布していることを,酒泉郡を例として述べたことがあるが,このような問題にも,高村論文は有力な手がかりを与えてくれたように思うのである.
by s_sekio
| 2006-04-16 15:50
| 余滴