2023年 01月 24日
毋丘倹志記 |
西川論文はもう終わりにしたいところだが,倭人条を①行程記事,②風俗記事,③魏倭関係記事の三つの部分に大別し,①と②の部分が239年以前に倭地を来訪した漢人の復命書をベースにしているとし,その原史料が『毋丘倹志記』だったとする.また③は「洛陽の宮廷に残された外交にかかわる公文書が原史料」(290頁)とする.著者は,「毋丘倹が公孫氏や高句麗を討伐するために包囲網を形成していたことは間違いなく,その前後に半島や辺境諸民族との連携を求め,諜報活動を行っていたと考える」(291頁).
このあたりどうも混乱しているとしか思えないのだが,③は魏倭双方の公的な使者・使節の公的な文書がルーツで,①・②は諜報活動といういわばウラの情報だったということか.しかし「復命書」とある.また東夷伝の記事が250年頃までで終わっているのは,東夷の諜報が毋丘倹がこの頃に幽州刺史を解かれて「東夷の諜報」はこの頃に終わったからとする.とすれば③も諜報活動の結果ということになってしまう.
それに,「計其道里,当在會稽東冶之東」とか,「所有無与儋耳・朱崖同」とかいった②の記事も諜報活動の結果なのか.違うだろ.
「『三国志』の裴松之の注釈(ママ)にも『毋丘倹志記』が引用されている」(291頁)とするが,ネット上のテキストを検索した限りでは,たった一箇所明帝紀だけである.裴松之がその完本を見ることができたにせよ,自分の註に引く価値を認めなかったのではないか.本伝にも引かれていないし.
by s_sekio
| 2023-01-24 21:06
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