2022年 11月 26日
冠帯之国(郷・境) |
『漢書』巻94上匈奴伝:
……先帝制,長城以北,引弓之国,受令単于.長城以内,冠帯之室,朕亦制之.使万民耕織,射猟衣食,父子毋離,臣主相安,倶無暴虐.
前漢文帝の詔だが,次は『隋書』巻67裴矩伝:
高(句)麗之地,本孤竹国也.周代以之封于箕子,漢世分為三郡,晋氏亦統遼東.今乃不臣,別為外域,故先帝疾焉,欲征之久矣.但以楊諒不肖,師出無功.当陛下之時,安得不時,使此冠帯之境,仍為蛮貊之郷乎.
曹魏による高句麗「征討」については,その直前に高句麗が遼東郡西安平にたびたび(だったか否かは判断がじつはむつかしいのだが)侵攻してきたことが直接の理由だったことが,田中俊明氏らによって説かれている.
倭の卑弥呼の親魏倭王冊封については,東西さいはて論(曹魏のイデオロギー)で説明しながら,高句麗「征討」については,具体的な両国関係から説明するのは,バランスを欠いているのではないか.そもそも西安平への侵攻に対するだけで,なぜあれほどまでに執拗かつ広範囲な軍隊の出動が行なわれたか,説明ができないだろう.
むしろ高句麗が「地域大国」だったことがこのような軍事行動を曹魏にとらせたと考えるべきだろう.中央アジアの「地域大国」(これらは高句麗と違って曹魏とは接していなかったのだが)さえ,既に220年代を通じて遣使朝貢してきていたことを考えればなおさらであろう.
さらにもっと掘り下げれば,時代は前後するが,隋の高句麗「征討」が,かつてこの地が「冠帯之境」だったことから正当化されているのである.このような考え方は,前漢時代にも行なわれており,「長城以内」は「冠帯之室」で皇帝が治める空間と意識されていたのである.このような考え方(イデオロギー)は漢から曹魏にも継承されており,それが一番の基底にあったのではないだろうか.
以上,大昔書いた「「冠帯之国」拾遺―突厥の衣冠制導入を中心として―」の論旨を思い出したので.
by s_sekio
| 2022-11-26 11:42
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