2022年 07月 22日
親魏大月氏王・親魏倭王,ふたたび |
クシャン朝のヴァースデーヴァは229年,親魏大月氏王に冊封されたが,クシャン朝は四半世紀もたたないうちにサーサーン朝に滅ぼされてしまった.時の王はヴァーシシュカ.トゥルファンに駐在していた西域戊己校尉が管轄下にあった中央アジアの「地域大国」に助勢を指示したことはあったかもしれないが,曹魏本国から将軍が部隊を率いてクシャン朝助勢のために駆けつけるなどということはもとより不可能な話である.せいぜいが,親魏大月氏王に冊封された際,難升米を通じて賜与されたような黄幢がヴァースデーヴァの使者に賜与された可能性が指摘できよう.しかしこれがサーサーン朝とのいくさに際して,クシャン朝にとって有意義に作用したとも思えない.
反対に,親魏倭王卑弥呼が狗奴国の王卑弥弓呼と不和で対立が激化したとしても,これまたせいぜいが黄幢くらいで,倭国が「属」した帯方郡の太守が,同じく属していた三韓諸国に兵力の動員を指示するとか,ましてや曹魏本国が海を渡って大軍を差し向けるということはなかったに違いない.親魏王号は所詮その程度のものだったのである.ありがた迷惑とまでは言えないが,地位の高さを予測させるほどには,優遇されるような爵号ではなかったということである.そう書いてしまうと身も蓋もないが,あまり注目するのもどうかと思うようになった.つまり曹魏を中心とした力関係に大転換をもたらすような爵号ではなかったということ.その意味はかみしめておく必要があるだろう.
by s_sekio
| 2022-07-22 19:51
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