2022年 06月 04日
堀敏一「漢代の異民族支配における郡県と冊封」 |
結局何度も読み返すことになった.『三国志』東夷伝夫余条に,先代が授与された「濊王之印」があったことを伝えている.夫余の王になぜ「濊王之印」が授与されたのか,だが,夫余が濊から発展してきたという説(白鳥庫吉/三上次男)と,濊や濊貊は夫余・高句麗を含んだ諸族の汎称という説(三品彰英)があるようだが,後漢時代に限って言えば,高句麗は濊貊とともに遼東や玄菟に侵寇しているので,少なくとも後漢の側では,高句麗と濊貊は別の実体を有すると理解していたのであろう.もっとも49年の大規模侵寇についてその主体を,『後漢書』本紀は「遼東徼外貊人」とし,東夷伝は「句麗」とする.高句麗が一名貊だったことは東夷伝も記すところだが,高句麗<貊であって,倭国<倭といったのと同じなのだろうか.
それはともかく,堀氏は以下のように述べる.
しかし夫余王や高句麗王の称号は,本来異民族の側の称号であって,漢側が冊封した称号ではなかった.ただ夫余に与えられたらしい「濊王」という称号は,「濊王之印」の形式が後述する「滇王之印」と同様であることからみて,漢が与えた冊封号とみてよいであろう.しかし夫余王・高句麗王は遼東郡・玄菟郡・楽浪郡との間に,叛服常ならない状態を呈していた(56頁).
『後漢書』東夷伝夫余条には,「永寧元(120)年,乃遣嗣子尉仇台詣闕貢献,天子賜尉仇台印綬金綵」とあるので,この時の「印綬金綵」が「滇王之印」だったと考えることもできる.ただ確言はできないし,この王号と夫余王との関係はどうなるのだろう.高句麗の場合も,王莽時代の下句麗侯かた高句麗王への改号を認められたのだから,この王号は一定の公式性を持っていたはずだ.夫余王号も同じだろう.
また堀氏は夫余と高句麗を一括して「叛服常ならない」とするが,夫余が高句麗よりも服属度(ヘンな言葉だが)が高かったようで,王号もそれを反映しているのではないか.
by s_sekio
| 2022-06-04 10:05
| その他

