2022年 03月 07日
倭国伝 |
確かに東夷伝中,倭国条の字数は突出している.しかし卑弥呼に与えた制詔と,その後の魏倭関係の概要に多くの字数が割かれている(もちろんそれだけではない).親魏倭王という王号が親魏大月氏王と同じように当時としては破格で,稀少な事例であれば,その制詔(写しか)は保存され,陳寿も実見できたかもしれない.それを引用するとして,本紀には文章が長すぎてふさわしくなく,倭国条に落ち着いたということなのではないか.とくに陳寿が個人的に倭国に強い思い入れを抱いていたわけではないだろう.もちろん司馬懿や司馬炎への忖度など実証できないし,それは彼の個性とも反するし、私はとらない.
陳寿は最初から西戎伝を設けるつもりはなかったであろうから,親魏大月氏王については本紀に記すしかなかった.もちろん簡単に.この時の制詔も倭国のそれと同じように残っていて,陳寿も見ることができたかもしれない.卑弥呼の親魏倭王について本紀に書かなかったのは,倭人条に書いたから(たんに忘れただけなのかもしれないが).第三次「北伐」について魏書に書かなかったのは,蜀書に書いたから(書くつもりだったから).陳寿にはそういった合理性があったのだと思う.第三次「北伐」への対応で曹魏がしくじったのは,あえて魏書に書かずとも,蜀書を読めばわかる.そういう合理性である.
では何故,卑弥呼に親魏倭王を授与したのか?倭国が孫呉と手を結ぶことを防ぐためだったという見方が多いようだが,所詮推測の域を出ない.大月氏国(クシャン朝)が蜀漢と手を結ぶことを防ぐためだったという見方が成立しないのと同じように.勃興したササン朝の軍事的脅威にさらされたクシャン朝は,トゥルファンに拠点を定めた西域戊己校尉の誘いもあり,曹魏に遣使したと考えるべきだろう.ただササン朝の脅威は強まるばかりで,ほどなくしてクシャン朝は滅亡してしまう.遣使の記録もこれ以後はない(あるいはトゥルファンの戊己校尉とは通じていたのかもしれないが).
by s_sekio
| 2022-03-07 19:37
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