2019年 04月 24日
嘉峪関と武威の魏晋墓 |
今月18日付けで「玉門・武威の後漢・魏晋墓」なる記事をエントリーしたが,武威市の南灘魏晋墓は,写真をアップしたように,墓室の壁面に白色磚と黒色磚をモザイク状に嵌め込ることにより,壁面全体を装飾している.包艷・張騁傑・史亦真編『中国絲綢之路上的墓室壁画 西部巻』甘粛分冊(東南大学出版社,2017年)は,この「武威南灘趙家磨M1」(金羊鎮趙家磨村)を画像磚墓とする(第一章「概述」).そこには嘉峪関市の観蒲9号墓も画像磚墓として上がっている.77HKM9として簡報に紹介されている墓だが,ようするに新城9号墓のことである(発掘を担当したのが嘉峪関市の機関ではなく,甘粛省博物館だったため,墓の名称も所在地の新城鎮ではなく,その下位の観蒲村になったのであろう.紛らわしいので新城9号墓とする).しかし新城墓群の画像磚墓は,1,3~7,12,13号墓の8座だけなので,書きかけの自著で,この包艷他編著の見解を批判したところであった.ところが,武威市の南灘魏晋墓を画像磚墓だと言うのなら,確かに新城9号墓もまごうかたなき画像磚墓となる.すなわち下に示したように,前室(左)・後室(右)ともに墓室の壁面は,白色磚と黒色磚をモザイク状に組み合わせて築かれているからである.とくに前室の組み合わせは見事と言うほかない.ただ南灘魏晋墓にしても,この新城9号墓にしても,これを「画像磚墓」と呼ぶのが妥当かどうか,なかなか難しいものがある.なお図の出典は,甘粛省博物館「酒泉・嘉峪関晋墓的発掘」,『文物』1979年第6期.
by s_sekio
| 2019-04-24 19:39
| 三国志の考古学