2018年 04月 21日
漢代の名謁・名刺 |
表記の簡牘については,すでに角谷常子氏により,前漢時代末期から王莽期の名刺簡三枚が示されている(同氏「漢・魏晋時代の謁と刺」,藤田勝久・松原弘宣編『東アジア出土資料と情報伝達』,汲古書院,2011年).これをあらためて掲げておく.なお後二枚は,馬怡氏もそれぞれ「張立侯之刺」,「審之刺」の名をつけて例示している(同氏「天長紀荘漢墓所見“奉謁請病”木牘――兼談簡牘時代的謁与刺」,卜憲群・楊振紅主編『簡帛研究』二〇〇九,桂林:広西師範大学出版社,2011年).
①賤子壽宗叩頭再拜問 (居延甲渠候官EPT53.110)
②居延倉宰張立侯 謹遣戍曹左史尋詣門下問起居叩頭叩頭 (居延漢簡甲1953/505・4+505・1)
③都護令史公乘審叩頭叩頭 字子春 (敦煌漢簡198/敦煌馬圏湾79DMT5:159)
角谷氏自身も認めているように,このうち②は下段に用件が記されており(戍曹左史の某尋を派遣して安否を問う),限定的に用いられたのであるから,名謁ないしは名謁に近いものと考えるべきであろう.また角谷氏はふれていないが,この②だけは姓名が明記されている.この点でも名だけを記す①や③とは明らかに異なっている.③は職名が明記されている点で異色だが,魏晋時代の名刺簡と同じように,簡末にやや小ぶりな文字で字が併記されている.姓を記さない理由はいろいろ考えられるが,記す必要がない程度に親密で,かつこの名刺自体がきわめて私的な挨拶に用いられるものだったということだろうか.
角谷氏や馬怡氏がふれている以外にも,居延からは名刺の可能性がある簡が出土しているので,これを列挙しておく.いずれも前一世紀から後一世紀の初頭のものと考えられる.
④賤子受伏地再拜☓ (居延漢簡甲111/11・5)
⑤宋解再拜請 (居延肩水金関73EJT24:190B)
⑥宋解謹伏地再拜請 再拜請 再拜請 入 (居延肩水金関73EJT24:193)
⑦賤子禹再拜言 ☓ (居延肩水金関73EJT26:138)
⑧督 蓬 隧 史 遂 再 拜 (居延肩水金関73EJT30:86)
⑨☓賤弟遷叩頭 ☓ (居延肩水金関73EJT33:32,削屑)
⑩賤 子 聖 謹 請 使 再 拜 (居延肩水金関73EJT37:1433)
該当するのは七枚だが,このうち⑤・⑥(ともに宋解のもので,習書か)以外は,やはりいずれも「賤子(弟)」や職名の後に名だけが記されている.①や③と同じように,姓を明記しなくても相手が承知していたということだろうか.だとしたら,汎用性が高いとは言っても,魏晋時代に比べると用いられる範囲は限定的だったということになる.
なおこのうち肩水金関出土簡の年代について,トレンチ(探方)ごとに伴出簡の紀年を見ておくと,T24は前一世紀前期から後一世紀初(前漢~新),T26は前一世紀前期からから後期(前漢),T30は前一世紀前期から末期(前漢),T33は前一世紀中期(前漢),そしてT37は前一世紀前期から後一世紀初頭(前漢~新)となるので,⑤以下の六枚も,前一世紀から後一世紀初頭のものと判断できる.④もこれらとほぼ同時代と判断してよいだろう.
by s_sekio
| 2018-04-21 09:18
| 余滴

