2017年 12月 01日
朱然墓の漆器 |
安徽省馬鞍山市の朱然墓からは,名刺(簡)が14枚,名謁(牘)が3枚出土しており,魏晉時代の名刺・名謁の研究には欠かすことのできないのだが(出土した名刺・名謁から,この古墓が朱然の墓とわかった),各種の漆器もいろいろな図柄が描かれており,貴重な出土文物である.なかでも大きな案には50人以上の人物像が描かれており,加えてその多くに題記が添えられている.また盤の一つ(『人民中国』1986年12月号が「帝后生活図盤」と呼ぶもの)にも5人の人物それぞれに題記が添えられている.この双方の題記は,冒頭に「・」(ビュレットないしは中黒)を打ち,一部の題記に「也」を附していることやその書風から判断して同じ工房で作成されたものと思われる.また後者の盤の題記は,「武帝」「相?夫人」「侍郎」「丞相也」「王女也」の五つだが,「武帝」とは前漢・武帝と曹操(魏・武帝)しか実在しておらず,おそらくは架空の情景を描いたのであろう.
ところで,この漆器群については,金文京氏が「これらの漆器は長江を通じての交易によって蜀から呉にもたらされたのであろう」(『中国の歴史』04,303頁)と述べ,また羅宗真・王志高両氏は「孫呉墓中大量蜀郡漆器的出土説明了呉蜀之間的密接関係.鄂州地近蜀地,所出蜀郡漆器或為両国貿易往来的商品.朱然因生前多次参与対蜀戦争,他的墓中随葬的蜀郡漆器到底是来自貿易・饋贈、還是呉・蜀干戈相見時的擄獲品就很難究明了」(『六朝文物』,370頁)と複数の可能性を指摘する.これは,伴出した漆器の背面に「蜀郡作牢」といった文字が見られるためである.漆器群が蜀郡で作成されたことは疑いないところである.しかし交易品や虜獲品という可能性は先ずないだろう.それは架空の情景であったにせよ,皇帝(盤に「武帝」とあるほか,案にも皇帝と覚しき人物が上段左側に描かれている)や皇后(案に題記あり)が図像化された製品が広く流布していたとは考えがたいからである.それ以上に,案の背面に「官」という一字が確認されるからである.すなわち呉の朝廷で保有されていたものであり,それが朱然に対してその死後下賜されたと考えるのが妥当であろう.もちろん漆器群全体がである.この点,斉鳳氏が「此器物反映的是皇権思想,除皇帝外別人絶不敢使用,応為宮内之物,非朱然日用之器.所以,朱然墓出土的〓(文+辶)些漆器或其中部分不排除朱然死後,孫権賜葬的可能」(『馬鞍山市六朝墓葬発掘与研究』,250頁以下)としているのを支持したい.劉備・劉禅から孫権に対する贈物だったのかもしれない.もちろん後漢時代の制作に関わる可能性も否定できない(その場合,「武帝」は前漢・武帝に仮託していることになる).わかるのは制作地であって,制作年代ではないからである.
それよりも私の関心を惹いたのは,案の題記である.案の図柄は上段に飲食しながら戯れている男女(皇后や諸侯夫妻など)を描き,中段・下段には警護の兵士とともに,さまざまなパフォーマンスに興じている人びとを描き込んでいる.その中に,下段中央左側,「長人」と「□人」という題記を有する長身の人物と低身長の人物が描かれている.障碍者(身体異常者)をパフォーマーとして描いたものと考えられないだろうか.残念ながら低身長の人物の題記は釈読できないが,『山海経』などに出てくる名称に字形が合致するものはないようである.同時代の河西地域の磚画・壁画,なかでも代表的な酒泉・丁家閘5号墓の壁画にもパフォーマンスが描かれているが,このような身体異常者が描かれていない.この二人を含めて架空の情景だったのだろうか.
残念なことに,手元には『文物』と『人民中国』しかなく,図録本の入手を俟って,検討を深めたいと考えているところである.
by s_sekio
| 2017-12-01 07:52
| 余滴