2017年 10月 01日
西北地方の夏侯氏 |
北京・中国古陶文明博物館に所蔵・展示されている木板の「建興五(317)年夏侯妙々随葬衣物疏」を初めて紹介したのは白須淨眞氏である.
白須「〈晉の建興五(317)年,故酒泉表是都鄕仁業里・大女・夏侯妙々の衣物疏―古陶文明博物館(北京)所蔵・新資料の紹介―」,『東ユーラシア出土文献研究通信』第3号,2013年.
同「晉の建興五(317)年,故酒泉表是都鄕仁業里・大女・夏侯妙々の衣物疏―古陶文明博物館(北京)所蔵・新資料の紹介―」,『広島東洋史学報』第18号,2013年.
同(裴成國訳)「晉建興五年夏侯妙妙衣物疏初探――古陶文明博物館所蔵新資料介紹」,朱玉麒主編『西域文史』第8輯,北京:科学出版社,2013年.
その後,三﨑良章氏や北村永氏らも博物館を訪れて実見されたという.これが現在の高台県(当時の酒泉郡表是県)の古墓から出土したことは,文中に「晉故酒泉表是都鄕仁業里大女夏侯妙々衣物疏」とあることから疑いない.白須氏はふれていないが,旧・高台県博物館には,「夏侯勝榮衣物疏/魏晋/駱駝城東南墓群」というキャプションとともに,夏侯勝榮の年次未詳随葬衣物疏が展示されていたので,両者は近い関係にあった可能性も考えられる.
ところで,夏侯氏の出身者には,トゥルファンからドイツ隊が持ち出した「承平三(445)年九月大且渠安周造寺功德碑」にその作者として中書郎中の夏侯粲の名が見えている.
397年に誕生した段氏北涼は,建康太守だった段業が周囲から推されて涼州牧・建康公を名乗ったことから始まる.やがて都は建康から張掖に移され,業は沮渠蒙遜に殺害されて段氏北涼はあっけなく倒れてしまうが,建康にあった夏侯氏の出身者が段氏北涼の政権に参画したことは十分に考えられよう.段氏北涼を継いだ沮渠氏北涼も439年北魏に滅ぼされ,沮渠氏はトゥルファンに逃れて高昌北涼を建てることになるのだが,中書郎中としてこの政権に参与していた夏侯粲は,かつて建康にあった夏侯氏の末裔と考えることもできよう.
残念ながら,李方・王素編『吐魯番出土文書人名地名索引』を繰った限りでは,夏侯氏は見当たらない.トゥルファンに名を残したのはどうやら夏侯粲だけのようである(この索引以後も文書が出土しているので,それらを精査する必要は残っている).
今度はさかのぼって,『晉書』を探すと,巻55夏侯湛伝に附された湛の弟淳伝に,「遭中原傾覆,子姪多没胡寇,唯息承渡江」とあって,淳の系統は多くが華北に取り残されたことがわかる.晉室とともに江南に逃れ損なった夏侯氏こそ,随葬衣物疏が残された妙々や勝榮だったというのはうがちすぎであろうか.またこのような人士を収容すべく,あえて東晉の国都と同じ名称をもつ建康郡を前涼が新設したと考えることもできよう.もっとも後秦の姚泓のもとにも尚書郎夏侯稚の名があるし,華北に残った夏侯氏一族が全部河西に逃れたと考えることはできないだろうし,その必要もなかろう.ただ西晋最後の都となった長安が陥落した時点で,長安にあった官人たちが最も避難しやすかったのは涼州だったに違いない.それは地理的な要因のみならず,涼州刺史張寔の方向性もあってのことである.
by s_sekio
| 2017-10-01 13:43
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