2017年 08月 16日
建康郡 |
一昨日・昨日と続けて寇克紅氏の論稿
「駱駝城墓葬出土簡牘考釈三則」,『大湖湾文学期刊』総第5期,2007年(寇A)
「高台駱駝城前旗出土墓券考釈」,『敦煌研究』2009年第4期(寇B)
にふれたのは,このうち寇Bを拠り所にした,
白須淨眞「前涼・張駿の行政区画会編と涼州・建康郡の設置―改編年次に係わる司馬光の見解と考古資料による新見解―」,『敦煌写本研究年報』第8号,2014年の主旨を理解するためであった.この白須論文は私にとってはとても難解だった.それは,著者独特の,「簡明直截」とは真逆な文体と,私の脳の老化に由来するのではないか,と思わせるに充分であった.そこで,白須論文が拠り所とした寇Bを読み直し,それと関わって白須論文が言及していない寇Aにもあたってみたわけである.
結論としては,寇Bが『通鑑』の解釈に誤りを犯していたことがわかったのだが,白須論文は知ってか知らずか,その誤りを指摘せずに,寇Bの主旨を拡大解釈しているところに最大の問題があることがわかった.寇Bは,建康郡の設置年代を335年(『通鑑』が楊宣の龜茲・〓善遠征を繋いだ年)とし,郡新設と西域遠征との関連を予測する.白須論文はふれていないが,寇Aでは,佚した『十六國春秋』に建康郡が335年に設置されたという記述があることが述べられており,寇克紅氏は,楊宣遠征と郡の新設がいずれも335年とされていることから,両者の関連性を想定されたと理解するのがもっとも理に叶っていよう.
しかし,白須論文は,「寇氏は,司馬光の言う345年ではなく335年に行区改編が実施されたと見なされているのであるから」,「寇氏はこれ(楊宣が「部将」から「沙州刺史」になったこと)を咸康元年(335)と見なす張駿行革と連動させ,三州改編の重要な根拠とされたに違いない」(以上,9頁)とか,「寇氏が,建康郡設年代を335年とされたのは,張駿行革と行区改編の氏の推定年次335年と,336年の紀年のある考古資料(これが周振・妻孫阿惠墓券―關尾註)との整合性を優先させたからであった.妥当な手法であるが,建康郡の新設年代が,寇氏の推察された335年の張駿行革と行区改編と同時でなければならないその理由を示しての提言とはなっていない」(14頁)とか述べ,あたかも寇氏が,335年に「張駿行革」と「行区改編」が行われたと考え,かつ述べているかのように説く.しかし,寇氏が述べているのは,あくまでも建康郡が335年に設置されたということだけである.それが,「張駿行革」や「行区改編」の一環だとか,関連しているとか述べているわけではない.にもかかわらず白須論文はその結論部分で,「行区改編」は「寇335年説」を最初期に,「司馬光345年説」を完成期に対応させることを提言するのである.その直後には,「建康郡の新設を335年に置きこれを行区改編と一致させる寇説」(18頁)と述べるが,このような説も,上の「寇335年説」も存在しないのだから,白須論文は論文として成り立たない.なぜ寇Bをこれほどまでに拡大解釈することになってしまったのか,不可思議なところである.
白須論文が「張駿行革」というのは,「張駿が,自ら大都督・大将軍・仮涼王を称し,三州を督摂し,諸官を整え,車服・旌旗も王者に擬えた行政改革」(1頁)で,「行区改編」というのは,この改革に「内包される三州の督摂,すなわち涼・河・沙三州の設置」(1頁)をさしている.張駿が王号を自称したのは,まさに国体・国制の改変であって,これを行政改革と用語するのは,コトの本質を見誤りかねない矮小化でしかないだろう.「行政改革」という現代政治になじみ深いタームが中国古代史研究にそのまま投げ込まれてしまった感を抱くのは私だけではないだろう.また行区改編という用語も,あたかも州・郡・県の全行政区画をそれこそシャッフルしたような感を抱かせ,間違った理解に誘う危険性がある.『晋書』や『通鑑』が述べているのは,あくまでもそれまでの涼州を涼・河・沙の三州に分割したことだけである.私が一昨日の記事で,「三州分割」と呼んだのは,そのような誤解を避けるためである.
白須説の「行区改編」理解,すなわち335年最初期,345年完成期といった理解も,国制の改変を「行革」に矮小化したことと無関係ではないだろう.三州分割は,涼王を称して自立に向けて踏み出した以上,その版図に複数の州を置くことによって名目的に王国としての体裁を整える必要から行われたものと考えられるからである.したがって三州分割に最初期も完成期もない.「臣称」も,基本的には,それまでの長吏と属吏の関係だった前涼の主権者とそのスタッフとの関係が君臣関係に転化したというのがコトの本質であろう.
もちろん,国制の改変と三州分割の年次について,『通鑑』が345年に繋ぐのに対して,『晋書』は335年頃のこととしており,その問題は未解決である.ただ白須論文がこの問題の解決に寄与しないことだけは確実である.
寇克紅氏自身は,自分の論稿がこのように受容されていることはご存じないだろう.知らない間柄ではないので,複雑な思いである.
by s_sekio
| 2017-08-16 07:39
| 余滴