2011年 11月 28日
訃報 |
2011年11月26日,静岡大学人文学部の重近啓樹教授が逝去された.享年満60歳.
初めて重近さんと会ったのは,確か1975年の夏休み前,東大で西嶋定生先生が主宰されていた魏書研究会の席上だったのではないだろうか.当時,氏は明治大学の大学院生で,私は上智大学の大学院で修士論文に取り組んでいた時期であった.その後,氏は他用ができたようで,この研究会からは離れていったが,翌1976年からは,歴研の東洋前近代史部会(現,アジア前近代史部会)でご一緒することになった.既に大学院在籍当時から,何篇か論文を発表していた氏は,同学年ながら,私にとっては先達であり,歴研の大会報告も,この時期に行われている.1985年4月から,氏は静岡大学に,私は新潟大学に赴任することになり,部会のメンバーが二人のために開いてくれた送別会のことは今でも鮮やかに記憶に残っている.その後氏は,明治大学から学位を授与され,それをもとに単著を公刊された.秦漢時代の社会経済史のなかでも税役制度をメインテーマにされていた氏は,私が進めていた麴氏高昌国時代の條記文書に関する仕事に関心を寄せて下さり,早く一書にまとめるように,会う度ごとに慫慂された.今にいたるまで,一書が完成していないのはご承知のごとくで,氏の訃報に接して,慚愧の念に耐えない最大の事由である.1996年から2年間は偶然にも駒場の大学入試センターで一緒に仕事をすることになった.2年目は,氏が幹事で,私が世界史Aの責任者ということもあり,何かと相談することが多かったが,世界史部会の部会長であった池谷文夫先生からは絶妙なコンビというお褒め?の言葉を頂戴した.2001年の夏には,中国魏晋南北朝史学会の大会に出席するため,会場の大同に向かう列車に乗り込もうとしていた北京駅でばったり氏と遭遇した.在外の短期で北京の歴史研究所に滞在中のため,学会に参加することにしたという話であった.大同は数日間の短い滞在ではあったが,おもしろいエピソードがいくつもある.この年には,長沙の学会でも行動を共にさせていただいた.静岡県がお茶の縁で浙江省と交流していることや,そのために氏も何度か杭州大学(現,浙江大学)に派遣されたことなども,湖南省博物館に向かうタクシーの中で教えられた記憶がある.最後に会ったのは何時だっただろうか?2009年10月に,氏の骨折りで静岡大学を会場にして日本秦漢史学会の年次大会が開催されることになった.久しぶりに氏に会うのを楽しみに,六大学法文学部長会議が開かれていた金沢から静岡に回ったのだが,ホスト役の氏は入院中ということで再会はかなわなかった.今から思うと,その頃既に病魔に冒されていたのであろう.今月に入り,病状が悪化したことを,太田幸男先生を通じてうかがっていたのだが,このように早く幽明境を異にされることになろうとは.私たち二人がそれぞれの大学に赴任した時分,東洋史の分野では,私大の出身者が国立大学に職を得るケースはさほど多くはなかった.いやほとんどなかったと言っても良いだろう.氏がこのことをどの程度意識されていたかは,ついぞ聞く機会を逸してしまったが,私はかなり意識していた.その分肩にたいそう力が入っており(今でもその名残があるのだが),同僚からたしなめられたこともあった.けれども,今までなんとか頑張って来られたのには,氏の存在がとても大きかったのだとあらためて思う.
重近さん,本当に本当に長い間ありがとう.條記文書に関する仕事は必ず一書にまとめます.
どうか安らかに.
初めて重近さんと会ったのは,確か1975年の夏休み前,東大で西嶋定生先生が主宰されていた魏書研究会の席上だったのではないだろうか.当時,氏は明治大学の大学院生で,私は上智大学の大学院で修士論文に取り組んでいた時期であった.その後,氏は他用ができたようで,この研究会からは離れていったが,翌1976年からは,歴研の東洋前近代史部会(現,アジア前近代史部会)でご一緒することになった.既に大学院在籍当時から,何篇か論文を発表していた氏は,同学年ながら,私にとっては先達であり,歴研の大会報告も,この時期に行われている.1985年4月から,氏は静岡大学に,私は新潟大学に赴任することになり,部会のメンバーが二人のために開いてくれた送別会のことは今でも鮮やかに記憶に残っている.その後氏は,明治大学から学位を授与され,それをもとに単著を公刊された.秦漢時代の社会経済史のなかでも税役制度をメインテーマにされていた氏は,私が進めていた麴氏高昌国時代の條記文書に関する仕事に関心を寄せて下さり,早く一書にまとめるように,会う度ごとに慫慂された.今にいたるまで,一書が完成していないのはご承知のごとくで,氏の訃報に接して,慚愧の念に耐えない最大の事由である.1996年から2年間は偶然にも駒場の大学入試センターで一緒に仕事をすることになった.2年目は,氏が幹事で,私が世界史Aの責任者ということもあり,何かと相談することが多かったが,世界史部会の部会長であった池谷文夫先生からは絶妙なコンビというお褒め?の言葉を頂戴した.2001年の夏には,中国魏晋南北朝史学会の大会に出席するため,会場の大同に向かう列車に乗り込もうとしていた北京駅でばったり氏と遭遇した.在外の短期で北京の歴史研究所に滞在中のため,学会に参加することにしたという話であった.大同は数日間の短い滞在ではあったが,おもしろいエピソードがいくつもある.この年には,長沙の学会でも行動を共にさせていただいた.静岡県がお茶の縁で浙江省と交流していることや,そのために氏も何度か杭州大学(現,浙江大学)に派遣されたことなども,湖南省博物館に向かうタクシーの中で教えられた記憶がある.最後に会ったのは何時だっただろうか?2009年10月に,氏の骨折りで静岡大学を会場にして日本秦漢史学会の年次大会が開催されることになった.久しぶりに氏に会うのを楽しみに,六大学法文学部長会議が開かれていた金沢から静岡に回ったのだが,ホスト役の氏は入院中ということで再会はかなわなかった.今から思うと,その頃既に病魔に冒されていたのであろう.今月に入り,病状が悪化したことを,太田幸男先生を通じてうかがっていたのだが,このように早く幽明境を異にされることになろうとは.私たち二人がそれぞれの大学に赴任した時分,東洋史の分野では,私大の出身者が国立大学に職を得るケースはさほど多くはなかった.いやほとんどなかったと言っても良いだろう.氏がこのことをどの程度意識されていたかは,ついぞ聞く機会を逸してしまったが,私はかなり意識していた.その分肩にたいそう力が入っており(今でもその名残があるのだが),同僚からたしなめられたこともあった.けれども,今までなんとか頑張って来られたのには,氏の存在がとても大きかったのだとあらためて思う.
重近さん,本当に本当に長い間ありがとう.條記文書に関する仕事は必ず一書にまとめます.
どうか安らかに.
by s_sekio
| 2011-11-28 08:55
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