2011年 06月 20日
新着(11/06/17) |
『史学雑誌』第120編第5号,2011年5月,0018-2478.
恒例の「回顧と展望」号.魏晋南北朝の項をめくる.国家論一色といった感じで,長沙呉簡の研究についても,冒頭,「呉簡は郴州晋簡に比べて文献史料との結びつきが弱いという難点をもつが,昨年はそれを他の出土資料との比較から国家論の研究にまで昇華せんとする動きが見られた」と評価し,最後は,「孫呉ひいては漢唐間の国家論への道のりは遠いであろうが見守っていきたい」というエール(?)で結ばれている.論稿が取り上げられている石原遼平,鷲尾祐子,および谷口建速の三氏はいずれも長沙呉簡研究会のメンバーであり,とくに鷲尾・谷口両氏は,科研費プロジェクト「出土資料群のデータベース化とそれを用いた中国古代史上の基層社会に関する多面的分析」(略称:南北科研)のメンバーでもある.研究会・科研のメンバーの個人的な関心やアプローチは多様であって,制度や支配に大きな関心を有するメンバーもいる.しかしながら,あたかも国家論に結実しない呉簡研究は無意味であるかのような書き方には納得しかねる.もちろん,研究会としても科研としても,新たな国家論の構築を目ざして呉簡の研究に従事しているわけではない.むしろ科研の課題は,題目からもわかるように,社会論である(もっとも,「××論」という称謂自体に距離を置いているのだが,そのことも,評者が繰り返す国家論の内実も擱くとしよう).そもそも文献史料との結びつきが弱いのがどうして難点になるのだろうか?一次史料を尊重するのは史料論からすれば当然であって,文献史料との結びつきの強弱が難点や利点になるはずもない.私たちは,かかる一次史料に恵まれたことを何よりも喜ぶべきなのではあるまいか(少なくとも,私は基層社会への関心から,大いに喜んだ).もちろん,喜び方は千差万別であろうから,「喜ぶこと」を強いるつもりはないが,その逆に国家論を強いられるのは迷惑だし,なによりも不毛だと思う.
恒例の「回顧と展望」号.魏晋南北朝の項をめくる.国家論一色といった感じで,長沙呉簡の研究についても,冒頭,「呉簡は郴州晋簡に比べて文献史料との結びつきが弱いという難点をもつが,昨年はそれを他の出土資料との比較から国家論の研究にまで昇華せんとする動きが見られた」と評価し,最後は,「孫呉ひいては漢唐間の国家論への道のりは遠いであろうが見守っていきたい」というエール(?)で結ばれている.論稿が取り上げられている石原遼平,鷲尾祐子,および谷口建速の三氏はいずれも長沙呉簡研究会のメンバーであり,とくに鷲尾・谷口両氏は,科研費プロジェクト「出土資料群のデータベース化とそれを用いた中国古代史上の基層社会に関する多面的分析」(略称:南北科研)のメンバーでもある.研究会・科研のメンバーの個人的な関心やアプローチは多様であって,制度や支配に大きな関心を有するメンバーもいる.しかしながら,あたかも国家論に結実しない呉簡研究は無意味であるかのような書き方には納得しかねる.もちろん,研究会としても科研としても,新たな国家論の構築を目ざして呉簡の研究に従事しているわけではない.むしろ科研の課題は,題目からもわかるように,社会論である(もっとも,「××論」という称謂自体に距離を置いているのだが,そのことも,評者が繰り返す国家論の内実も擱くとしよう).そもそも文献史料との結びつきが弱いのがどうして難点になるのだろうか?一次史料を尊重するのは史料論からすれば当然であって,文献史料との結びつきの強弱が難点や利点になるはずもない.私たちは,かかる一次史料に恵まれたことを何よりも喜ぶべきなのではあるまいか(少なくとも,私は基層社会への関心から,大いに喜んだ).もちろん,喜び方は千差万別であろうから,「喜ぶこと」を強いるつもりはないが,その逆に国家論を強いられるのは迷惑だし,なによりも不毛だと思う.
by s_sekio
| 2011-06-20 14:31
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