2005年 10月 12日
陝西・咸陽前秦墓 |
咸陽市文物考古研究所「陝西咸陽市文林小区前秦朱氏家族墓的発掘」,『考古』2005年第4期:40-63,図版5-7.
M49:10
建元十四年二月十二日張氏女
朱紀婦
M20:28
朱卿
M35:7
朱文北至首
東至廟門
M44:4
朱卿
M44:5
朱苛
朱恵
M44:6
朱
表題の墓葬から出土した文字磚が4座から計6点になる.M49:10の建元をどう解釈するかだが,これを前秦の苻堅の元号と考え,378年に比定する.この4座は近接しており,朱氏一族墓と判断できる.
『資治通鑑』だと,359年12月条に,尚書侍郎・領太子庶子,京兆の朱彤がおり,やがて370年代には秘書監としてその名が見える.彼の詩が,Дх11414とДх02948に書写されていたことは,以前言及したことがある.本貫からしてその一族墓であろうか.副葬品が少なくなく,それなりの一族の墓葬だと考えられるのだが,しかしこれらの文字磚が,墓誌の代用か,すくなくともそのような役割を果たしていたとすれば,やはり「五胡」時代,墓誌の普及には限りがあったということになろう.その意味でも,これらの文字磚の意味は小さくないと思う.
M49:10
建元十四年二月十二日張氏女
朱紀婦
M20:28
朱卿
M35:7
朱文北至首
東至廟門
M44:4
朱卿
M44:5
朱苛
朱恵
M44:6
朱
表題の墓葬から出土した文字磚が4座から計6点になる.M49:10の建元をどう解釈するかだが,これを前秦の苻堅の元号と考え,378年に比定する.この4座は近接しており,朱氏一族墓と判断できる.
『資治通鑑』だと,359年12月条に,尚書侍郎・領太子庶子,京兆の朱彤がおり,やがて370年代には秘書監としてその名が見える.彼の詩が,Дх11414とДх02948に書写されていたことは,以前言及したことがある.本貫からしてその一族墓であろうか.副葬品が少なくなく,それなりの一族の墓葬だと考えられるのだが,しかしこれらの文字磚が,墓誌の代用か,すくなくともそのような役割を果たしていたとすれば,やはり「五胡」時代,墓誌の普及には限りがあったということになろう.その意味でも,これらの文字磚の意味は小さくないと思う.
by s_sekio
| 2005-10-12 19:40
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