『晉書』巻86張駿伝には,「咸和初」で始まる記事が2条ある.一つは2234頁の第2段落で,張駿が武威太守,金城太守,武興太守,揚烈将軍らをして前趙の秦州に大攻勢をかけた記事.結局この大攻勢は失敗に終わり,緊急事態に.「河西大震」とある.この記事は『通鑑』では巻93成帝咸和二(327)年十月条に繋年されている.咸和は326年からだから,「咸和初」というのはやや躊躇されるところ.
もう一つは2238頁の第1段落の冒頭部分で,前趙の圧力を回避するためか,隴西や南安の民戸を姑臧に徙民し,成漢と接触を図ったという記事.この記事を『通鑑』は巻93成帝咸和元(326)年是歳条に繋いでいる.
つまり『通鑑』の繋年を信用すれば,前者よりも早いできごとで,張駿伝は逆転している.このことも要注意だが,点校本の頁を示したように,二つの記事の間は4頁もあり,当然その間に他の記事がある.その一つに,くだんの行政区画改編の記事もある.西界の三郡を沙州に,東界の六郡を河州に,というヤツである.張駿伝の記事が年代順に並んでいたならば,行政区画の再編は326年から327年のことになってしまう.ひょっとすると,これが正しいのではないか,という声もあったりするのかもしれないが,西界三郡の一つはまちがいなく327年設置の高昌郡だろうから,これは違うだろう.高昌郡設置の記事は二つ目の「咸和初」の記事の後方に置かれており,矛盾する.つまり記事の並び順は,
一つ目の「咸和初」⇒沙州(三郡)・河州(六郡)分割⇒二つ目の「咸和初」⇒高昌郡設置
となる.
この一件,もともとは前涼の部将だった辛晏が枹罕に拠って反張駿の動きを見せたことが発端だった.324年12月頃のことで,張駿嗣位直後のこと.これは『通鑑』にも張駿伝にもある.辛晏が前趙に接近したようで,駿は參軍の王隲を前趙に派遣した.翌325年,辛晏は枹罕で駿に降った.これによって前涼は「河南の地」を回復することができた.これで一件落着と思いきや,前趙を警戒した張駿は,次に隴西・南安の民戸を姑臧に移したのである.『通鑑』はこれを326年のこととする.駿は前趙との全面対決を覚悟したのだろう.成漢にも遣使する.ここまでは確かである.だから張駿伝が徙民記事を2238頁まで繰り下げるのはおかしい.徙民を行なった上で,前趙の秦州に大攻勢をかけたということではないだろうか.つまり,
二つ目の「咸和初」⇒一つ目の「咸和初」⇒高昌郡設置(⇒沙州・河州分割)
というのが正しい順序だったのではないだろうか.