2008年 04月 30日
魏晋墓(続) |
今日も,予定されていた全ての会議が終わって研究室に戻って来たら,この時間になっていた.
昨日,クチャの魏晋墓について,南北科研のメンバーとメールをやり取りしていて気がついたのだが(なんと迂闊なことか),トゥルファンには敦煌の鎮墓文文化は伝播しなかった(少なくとも普及はしなかった),トゥルファンで普及した随葬衣物疏文化は,同じ河西でも敦煌以外(以東)で広く見られるものであった.それと同時に,壁画墓も酒泉や民楽のそれと同じようなものであった.モチーフなどの詳細な比較検討が今後必要だが,少なくとも,神獣を中心に描かれた敦煌の門楼の磚画とは明らかに異質であった.それに対してクチャでは,墓葬の形式(磚室墓)で,門楼に神獣が描かれている(浮彫だが)点で,敦煌の墓葬と同じである.敦煌以外(以東)からトゥルファンへ,敦煌からトゥルファン以外(以西)=クチャへという動線が展望できるのかもしれない.と書いていて,昨年11月に京都で于志勇先生から,ニヤからも敦煌と同じような陶罐(ただし文字はない)が出土したことを教えられたことを思い出した(これまた迂闊な話だが)97MNⅠM1:3「陶瓶」だが,文字こそ書写されていないが,高さが11.5㎝ということなので,敦煌のものと同じように小ぶりなつくりである.これも,敦煌からトゥルファン以外(以西)という動線の一部であろうか.もちろんトゥルファンから出土した後世の墓表を手がかりとするならば,トゥルファンにも敦煌から漢族が流入・定着したことは否定すべくもないのだが,トゥルファンで彼らは多数派を形成しえなかったのだろうか.かの地における敦煌の名族令孤氏の没落がそれを象徴しているかのようだが,これまた仮説以下のお話ではある.
昨日,クチャの魏晋墓について,南北科研のメンバーとメールをやり取りしていて気がついたのだが(なんと迂闊なことか),トゥルファンには敦煌の鎮墓文文化は伝播しなかった(少なくとも普及はしなかった),トゥルファンで普及した随葬衣物疏文化は,同じ河西でも敦煌以外(以東)で広く見られるものであった.それと同時に,壁画墓も酒泉や民楽のそれと同じようなものであった.モチーフなどの詳細な比較検討が今後必要だが,少なくとも,神獣を中心に描かれた敦煌の門楼の磚画とは明らかに異質であった.それに対してクチャでは,墓葬の形式(磚室墓)で,門楼に神獣が描かれている(浮彫だが)点で,敦煌の墓葬と同じである.敦煌以外(以東)からトゥルファンへ,敦煌からトゥルファン以外(以西)=クチャへという動線が展望できるのかもしれない.と書いていて,昨年11月に京都で于志勇先生から,ニヤからも敦煌と同じような陶罐(ただし文字はない)が出土したことを教えられたことを思い出した(これまた迂闊な話だが)97MNⅠM1:3「陶瓶」だが,文字こそ書写されていないが,高さが11.5㎝ということなので,敦煌のものと同じように小ぶりなつくりである.これも,敦煌からトゥルファン以外(以西)という動線の一部であろうか.もちろんトゥルファンから出土した後世の墓表を手がかりとするならば,トゥルファンにも敦煌から漢族が流入・定着したことは否定すべくもないのだが,トゥルファンで彼らは多数派を形成しえなかったのだろうか.かの地における敦煌の名族令孤氏の没落がそれを象徴しているかのようだが,これまた仮説以下のお話ではある.
by s_sekio
| 2008-04-30 20:54
| 余滴