2007年 06月 25日
トゥルファンと敦煌の「四神」 |
これも,弘前のWSの準備の過程で,あらためて考えたこと.
トゥルファンでは全時代を通じて随葬衣物疏が出土しているが,「五胡」時代の随葬衣物疏(初出は,380~390年代だが)の付加文言には,「四神」の名が列記されているものがいくつかある.もちろんそこに,仏教的な要素を見出すことはできない.
ところで,同時代の敦煌の墓葬からは一点も随葬衣物疏が出土していない.これは際立った差異である.「五胡」時代,敦煌で死者の鎮魂の役割を一手に引き受けたのは鎮墓文である.鎮墓文こそ,随葬衣物疏の付加文言に匹敵するもので,かつ文中には副葬品が「斗瓶」・「五穀」・「鉛人」など一部だけだが明記されている.これは貧弱ではあるが,随葬衣物疏の副葬品リストの部分に相当する.敦煌こそ質量ともに河西における鎮墓文文化のメッカであり,鈴木雅隆氏などは「敦煌型鎮墓瓶」というカテゴリーを作っているほどである.
かたや随葬衣物疏のトゥルファン,かたや鎮墓文の敦煌,といった風情で,「五胡」時代に関する限り,両者の葬礼文化には大きな差異があるのであって,それについては繰り返し述べてきたところであるが,翻って考えるに,「四神」は鎮墓文には見られないものの,画像磚の主要なモチーフであった.今は敦煌機場の下に埋もれてしまった新店台古墓群(甘粛省文物考古研究所の言うところの佛爺廟湾古墓群)の魏晋時代の画像磚墓には等しく門楼上に多くの画像磚が用いられているが,そのほとんどに「四神」が一つ残らず描かれているのである.これは,酒泉・嘉峪関の画像磚墓にはなかったことで,敦煌における篤い「四神」信仰を物語っているが,その「篤さ」においては,随葬衣物疏の付加文言に「四神」を登場させるトゥルファンも決して劣らないのではないか.一方はそれを図像化し,一方は文字化しただけの違いではないのか,という気もしてきた.
いやはや混沌としてきた.ただ文字資料ではあるが,文書(随葬衣物疏)と比べれば,格段とモノに近い鎮墓文(書写される素材=陶罐・陶鉢,その大きさ,さらには墓内の埋納位置など)に手を出し,勢い余って(悪乗りして?),非文字資料である(モノでもある)画像磚にまで対象を広げてしまったわけだが,それが無駄ではなかったようで,やれやれといった感じ.まあ動機や目的など後付けでしかないという意味では,けっして自慢できることではないのだが.
トゥルファンでは全時代を通じて随葬衣物疏が出土しているが,「五胡」時代の随葬衣物疏(初出は,380~390年代だが)の付加文言には,「四神」の名が列記されているものがいくつかある.もちろんそこに,仏教的な要素を見出すことはできない.
ところで,同時代の敦煌の墓葬からは一点も随葬衣物疏が出土していない.これは際立った差異である.「五胡」時代,敦煌で死者の鎮魂の役割を一手に引き受けたのは鎮墓文である.鎮墓文こそ,随葬衣物疏の付加文言に匹敵するもので,かつ文中には副葬品が「斗瓶」・「五穀」・「鉛人」など一部だけだが明記されている.これは貧弱ではあるが,随葬衣物疏の副葬品リストの部分に相当する.敦煌こそ質量ともに河西における鎮墓文文化のメッカであり,鈴木雅隆氏などは「敦煌型鎮墓瓶」というカテゴリーを作っているほどである.
かたや随葬衣物疏のトゥルファン,かたや鎮墓文の敦煌,といった風情で,「五胡」時代に関する限り,両者の葬礼文化には大きな差異があるのであって,それについては繰り返し述べてきたところであるが,翻って考えるに,「四神」は鎮墓文には見られないものの,画像磚の主要なモチーフであった.今は敦煌機場の下に埋もれてしまった新店台古墓群(甘粛省文物考古研究所の言うところの佛爺廟湾古墓群)の魏晋時代の画像磚墓には等しく門楼上に多くの画像磚が用いられているが,そのほとんどに「四神」が一つ残らず描かれているのである.これは,酒泉・嘉峪関の画像磚墓にはなかったことで,敦煌における篤い「四神」信仰を物語っているが,その「篤さ」においては,随葬衣物疏の付加文言に「四神」を登場させるトゥルファンも決して劣らないのではないか.一方はそれを図像化し,一方は文字化しただけの違いではないのか,という気もしてきた.
いやはや混沌としてきた.ただ文字資料ではあるが,文書(随葬衣物疏)と比べれば,格段とモノに近い鎮墓文(書写される素材=陶罐・陶鉢,その大きさ,さらには墓内の埋納位置など)に手を出し,勢い余って(悪乗りして?),非文字資料である(モノでもある)画像磚にまで対象を広げてしまったわけだが,それが無駄ではなかったようで,やれやれといった感じ.まあ動機や目的など後付けでしかないという意味では,けっして自慢できることではないのだが.
by s_sekio
| 2007-06-25 09:41
| 余滴