2017年 10月 21日
「令狐阿婢随葬衣物疏」の年代 |
2004年にトゥルファン・アスターナ408号墓から出土した表記の随葬衣物疏(04TAM408:17)は,吐魯番地区文物局「吐魯番阿斯塔那古墓群西区408,409墓清理簡報」(『吐魯番学研究』2004年第2期)に,第一報とともに写真・釈文が掲載され,墓の築造年代は〈五胡〉時代とされた.この第一報はさらに,吐魯番地区文物局「吐魯番阿斯塔那古墓群西区408,409号墓」(『考古』2006年第12期)として再掲され,同じ見解が述べられている.
本随葬衣物疏については,榮新江・李肖・孟憲實「新獲吐魯番出土文献簡介」(『吐魯番学研究』2006年第2期)でも,「高昌郡時期」の文書として紹介されており,さらにその再掲版である榮新江・李肖・孟憲實「新獲吐魯番出土文献概説」(『文物』2007年第2期)でも,「高昌郡時期」の文書として,その写真と釈文を紹介する.
その後,王素「吐魯番新獲高昌郡文書的断代与研究――以《新獲吐魯番出土文献》為中心」(土肥義和編『敦煌・吐魯番出土漢文文書の新研究』,(財)東洋文庫,2009年)は,「前涼随葬衣物疏」という項目を設けてこの随葬衣物疏について論じている.そこでは,新疆維吾爾自治区博物館考古部・吐魯番地区文物局阿斯塔那文物管理所「2006年吐魯番阿斯塔那古墓群西区発掘簡報」(『吐魯番学研究』2007年第1期)で報告されたアスターナ603,605号墓とその出土品などが根拠とされているが,大要は以下の通りである.2006年に調査が行われたアスターナ603,605号墓は距離的に近く,東西方向を向いており,加えて出土品も類似している.したがって同じ塋域だったと思われる.このうち605号墓からは「前涼咸安五(375)年隗田英随葬衣物疏」(06TAM605:22)と壁画が出土していること,そしてその605号墓の北に408号墓があること,この両墓は構造や出土品が類似していること,408号墓にも壁画があること,令狐阿婢は蓴鍾の妻と随葬衣物疏にあるが,隗田英の随葬衣物疏には彼女が蓴某の妻とあること,したがってこの一帯は蓴氏の塋域であり,令狐阿婢の随葬衣物疏も前涼時代と考えられるというのである.
これをうけて,町田隆吉「4~5世紀吐魯番古墓壁画・紙画再論」(『西北出土文献研究』第8号,2010年)は,アスターナ605号墓の壁画を紹介・検討する際に,王素氏の見解なども紹介しながら,明言こそされていないが,本随葬衣物疏の年代についても前涼時代と推定しているようである.白須淨眞「シルクロード古墓壁画の大シンフォニー――四世紀後半期,トゥルファン地域の「来迎・昇天」壁画」(同編『アジア遊学192 シルクロードの来世観』,勉誠出版,2015年)も,408号墓と603号墓(と605号墓)の位置関係を実見しており,本随葬衣物疏にも言及するが,「四世紀後半」とその年次を推定するだけで,「前涼時代」と限定的に考えた王素説にはなぜかふれるところがない.
605号墓から出土した隗田英の随葬衣物疏が未紹介にとどまっているのが遺憾ではあるが,別の角度から表記の問題を考えたい.
本随葬衣物疏は品目を一行に3点,しかも丁寧な三段書きで列記しているのが特徴的である.改行せずに一行に何点も品目を列挙する書き方は5世紀の随葬衣物疏には珍しくないが,その場合,品目と品目の間を一字程度空けただけの連続書きである.そのような連続書きとは対照的な三段書きである点に,唯一無二の特徴がある.4世紀の随葬衣物疏には,一行一品目の
「白雀元年某人随葬衣物疏」(中国国家博物館蔵)や,一行二段書きの「建元廿二年正月劉弘妃隨葬衣物疏」(大谷11032)などもあるが,本随葬衣物疏の三段書きは,「建元廿年戸籍」を彷彿とさせるものであり,またその三段書きは簡牘時代の上下二箇所の編綴による三段書きに由来するのであろう.そのように考えることができるとすれば,王素説は信頼性が高いが,
前涼と限定的に考える必要はないだろう.白須,前掲論文によると,408・603・605号墓の三座は,東西方向に並んで配置されていたようなので,隗田英と令狐阿婢(正確に言えば,両人の夫である蓴鍾と蓴某)は同時代人と考えられることは確かである.しかし隗田英の没年375年の翌376年に前涼は滅んでしまうわけだから,前秦時代の可能性も否定できない.380年前後とするほうが穏当ではないだろうか.
それに対して二段書きだが,周知のように,5世紀初めの西涼・建初籍や北涼の承陽籍は二段書きであった.簡牘時代の様式を引きづっていた三段書きから二段書き(簡牘時代も中段に文字を書かず,上段と下段だけを用いた二段書きがあった)に移行していったということだろう.あるいは同時に行なわれたと考えることもできよう.4世紀にも,5世紀と同じように,連続書きの随葬衣物疏もあった.アスターナ305号墓から出土した欠名の随葬衣物疏2点がそれである.この2点にはいずれも品目の冒頭に冠されるはずの「故」字がない.池田温「中国古代墓葬の一考察―随葬衣物券について―」(『国際東方学者会議紀要』第6冊,1961年)は,この点について,「記載も簡略で墓葬全体から庶民に近い階層とみなされるので,むしろ省略されたものと解してよいだろう」とする.被葬者の姓名を記さない点からもこれは首肯される.5世紀の随葬衣物疏で「故」字がない「年次未詳欠名(趙貨妻)随葬衣物疏」(06TSYIM4:8)や「縁禾五(436)年六月欠名随葬衣物疏」(66TAM62:5)なども記載が簡略(品目が少ないということと同義)であり,かつ被葬者の姓名を記していないので,この池田説を支持しておきたい.日頃,簡牘の公文書に接する機会が少なかった庶民に近い層であれば,三段書きや二段書きなどの習慣がなかったと考えることも可能である.また紙が稀少だったという事情も考えられよう.なお5世紀以降,三段書きや二段書きの随葬衣物疏は見えないが,唯一の一行一品目の随葬衣物疏は,「承平十六(458)年十二月彭氏随葬衣物疏」(79TAM383:1)である.北涼王沮渠蒙遜の夫人彭氏の帛の随葬衣物疏だったことを思えば,これは当然のことなのかもしれない.
by s_sekio
| 2017-10-21 10:40
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