2005年 10月 12日
玉門・畢家灘「五胡」墓 |
2002年に晋律が出土した,甘粛省玉門市花海郷の畢家灘の「五胡」墓について,新聞報道よりも学術的な記事として,
王 輝「花海畢家灘魏晋時期墓葬」,中国考古学会(編)『中国考古学年鑑2003』:357-358,文物出版社,2004年8月.
張俊民「玉門花海出土的《晋律》」,李学勤・謝桂華(主編)『簡帛研究2002/2003』:324-325,広西師範大学出版社,2005年6月.
がある.そこで紹介されているのは,後者のタイトルにもあるように,もっぱら『晋律』だが,墓葬の年代比定に用いられたのが,同じ墓群から出土した随葬衣物疏である.55座(後者は53座とする)からなる墓群だが,全部で9点の随葬衣物疏が出土しており,いずれも長さ23~30㎝,幅が3~5㎝の「木板」であるという.長さがまちまちなのが面白いが(当時の1尺は,約24㎝なので,30㎝だと1尺2寸~3寸であろうか),前者によると,紀年は建元16年から庚子4年・麟嘉15年に及ぶという.庚子は西涼の元号で403年に相当する.史書による限り当時この地域は西涼に支配下にあったと思われるので問題はない.また麟嘉は西涼以前にこの地を支配していた後涼の元号で既に396年に龍飛と改元されている.15年は確かに403年だが,この地は397年に北涼の,そして400年には西涼の支配下に入っていたはずで,肝心の後涼はその403年8月に姿を消しているのである.麟嘉15年の下の月がいつなのか,興味深いところである.
一方の建元だが,これは358年に比定されている.建元なる元号は多くの王朝で用いられているが,東晋康帝の建元は元年が343年なので,東晋の元号と考えられたのであろう.ただこちらも2年(344年)で終わってしまっており,どうであろうか.358年当時,この地域は前涼の支配下にあり,この政権はなお西晋最後の建興を用いていて,358年は建興46年であった.むしろ前秦苻堅の元号と考えれば,その16年は380年で,当時この地域は前秦の支配下にあったとする史書の記述とも矛盾しない.
実物はおろか発掘報告さえ見ていない(見れない)段階で結論めいたことを書くことはできないが,とりあえず上のような仮説だけは提示しておきたい.
大事なことを書き忘れてしまったけれど,要するにこの地では,5世紀初頭まで,随葬衣物疏には簡牘が使われていたのである.トゥルファンでは,随葬衣物疏や契約文書など私文書も,370・380年代に簡牘から紙に移行していったと考えられるのに,敦煌の周辺ではなお紙は普及していなかったかのごとくである.
王 輝「花海畢家灘魏晋時期墓葬」,中国考古学会(編)『中国考古学年鑑2003』:357-358,文物出版社,2004年8月.
張俊民「玉門花海出土的《晋律》」,李学勤・謝桂華(主編)『簡帛研究2002/2003』:324-325,広西師範大学出版社,2005年6月.
がある.そこで紹介されているのは,後者のタイトルにもあるように,もっぱら『晋律』だが,墓葬の年代比定に用いられたのが,同じ墓群から出土した随葬衣物疏である.55座(後者は53座とする)からなる墓群だが,全部で9点の随葬衣物疏が出土しており,いずれも長さ23~30㎝,幅が3~5㎝の「木板」であるという.長さがまちまちなのが面白いが(当時の1尺は,約24㎝なので,30㎝だと1尺2寸~3寸であろうか),前者によると,紀年は建元16年から庚子4年・麟嘉15年に及ぶという.庚子は西涼の元号で403年に相当する.史書による限り当時この地域は西涼に支配下にあったと思われるので問題はない.また麟嘉は西涼以前にこの地を支配していた後涼の元号で既に396年に龍飛と改元されている.15年は確かに403年だが,この地は397年に北涼の,そして400年には西涼の支配下に入っていたはずで,肝心の後涼はその403年8月に姿を消しているのである.麟嘉15年の下の月がいつなのか,興味深いところである.
一方の建元だが,これは358年に比定されている.建元なる元号は多くの王朝で用いられているが,東晋康帝の建元は元年が343年なので,東晋の元号と考えられたのであろう.ただこちらも2年(344年)で終わってしまっており,どうであろうか.358年当時,この地域は前涼の支配下にあり,この政権はなお西晋最後の建興を用いていて,358年は建興46年であった.むしろ前秦苻堅の元号と考えれば,その16年は380年で,当時この地域は前秦の支配下にあったとする史書の記述とも矛盾しない.
実物はおろか発掘報告さえ見ていない(見れない)段階で結論めいたことを書くことはできないが,とりあえず上のような仮説だけは提示しておきたい.
大事なことを書き忘れてしまったけれど,要するにこの地では,5世紀初頭まで,随葬衣物疏には簡牘が使われていたのである.トゥルファンでは,随葬衣物疏や契約文書など私文書も,370・380年代に簡牘から紙に移行していったと考えられるのに,敦煌の周辺ではなお紙は普及していなかったかのごとくである.
by s_sekio
| 2005-10-12 09:25
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